識無辺処定が神様の領域の始まり(同テーマ&時系列の前記事)
(同テーマ&時系列の次記事)サハスララのブラフマンの門を開く

非想非非想処定は十分に高い境地

2022-09-06
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

こうして見てみると、私は識無辺処定から無所有処定の段階にいる、という解釈もできますし、それはそれで腑に落ちるように思います。

本山博先生的な解釈に基づく非想非非想処定は私はまだ心当たりがありませんが、サハスララから上に上がって神様と合一した時の感覚かなぁ、という気がしておりますが、どうでしょうかね。

又、同説明において興味深いのは上にも少し言及しました仏教の唯心論的な解釈で、因果関係の説明や禅定の説明が唯心論に基づいているためにこのような解釈になっているという点。唯心論で有るが故に心が物質を作り出すとしているが、本山博先生によれば、物質は心から独立して存在しているものだそうです。仏教は物質の独立性を認めずに物は心の表れだとしていて「3界は唯心の所現」としているから科学は生まれず、世界的な宗教にはなれない、限界がある、とのことです。そういうものを乗り越える必要がある、とのことで、それには納得です。

非想非非想処定は仏陀がウッダカ仙人から教わって、すぐに到達して一旦は悟りかのように思ったけれどもそれは悟りではないと気づいてさらに瞑想を続けた、というのは仏教を知っている人にとっては有名なお話で手塚治虫のブッダにも出てきますけど、その結果、この非想非非想処定は軽視されがちだと思うのです。テーラワーダ仏教の説明を読んでも、色界禅定だけが必須で無色界の禅定は必須ではない(よって非想非非想処定も必須ではない)みたいな説明があったりします。ですけど、そんな乱暴な話はないと思うのです。

むしろ、この非想非非想処定は悟りの一歩手前の境地として、神様の一部、個人的なとはいえ神様、あるいはヨーガでいうプルシャと合一する段階ですので非常に重要な意味を持ちます。この段階が不要で飛び越して一気に悟りなど、あり得ないと思うのですが。それは流派の中で位とポジションを与えるための口実、と言う気もいたします。であれば、悟りを本当に求めている人はそんな詭弁に惑わされないのが良いのかなと個人的には思いますが、それは流派それぞれが判断することですので、これはあくまでも個人的な感想になりますので、流派に属している方はそれぞれ指導者の方針に従うのが良いかと思われます。

こうして本山博先生の解釈を見ていくと、割と一般的には非想非非想処定くらいが限界で、それで割と十分なのではないかと思うのです。それはそれで十分に高い境地でありますし、その先に行けたらラッキー、というくらいでもいいように思います。



識無辺処定が神様の領域の始まり(同テーマ&時系列の前記事)
(同テーマ&時系列の次記事)サハスララのブラフマンの門を開く