十牛図の返本還源で本当のワンネスに至る

2022-07-31 記載
トピック:スピリチュアル: 十牛図

人牛倶忘に至って無あるいはワンネスの静寂の境地に達した後、現世に帰ってきて活動するのが返本還源と言われています。それはそうだと思うのですが、これは、もっと単純なお話のように思えてきました。

第8図 人牛倶忘 → (部分的な)ワンネス、静寂(あるいは無と言ってもよい)
第9図 返本還源 → (ほぼ完全な)ワンネス

という、単純なお話なのです。そして、この段階は別々のレベルにあります。

十牛図の解説を読むと人牛倶忘が悟りの到達点かのように書かれてあったりもして、返本還源は悟った後の帰り道あるいは悟った後の生き方、みたいな解釈を見かけます。その場合、返本還源は後日談あるいは余談としての意味しか持たないのですが、それまでの階梯にそれぞれ深い意味があったのに最後の最後で、最後の段階で後日談の階梯を載せるでしょうか。そうは思えないのです。

今の私の解釈からすると、人牛倶忘と返本還源の間はかなり段階として異なるのです。もしかしたら元々書いた人はそのつもりで書いたのかもしれませんが、私には違って解釈できますし、それが合理的に思えますし、私の感覚とも一致します。

この2つの改訂の間で、主体も変化します。

人牛倶忘までは主体が「私」にあります。一応はワンネスを認識できていますけど、「私」が「ワンネス」と対峙している、という関係にあるわけです。

返本還源では、主体が「全体(ワンネス)」になります。自分も一応はいますけど、部分としての自分になります。ここに来てようやく本来のワンネスが実現できるわけです。

「本に返り、源に還る」とは、(中略)絶対無の一円相をさらに乗り越え、元の差別の現実世界に立ち帰った境地である。(中略)病気がなおったら、元の現実の社会に立ち戻って精一杯働くべきである。「参禅入門(大森 曹玄 著)」

いくつかの解説はほぼこの線で揃っていて、この1つ前の人牛倶忘が悟りとしていて、返本還源は帰り道だとしています。ですけど、それは当たらずとも遠からずで、完全には間違ってはいないのですが、ポイントを外していると思うのです。そのような解釈が通説になっているということは、これを最初に書いた人は最後まで到達した一方で、その後、今まで禅の覚者の多くが達した悟りは人牛倶忘だったということかもしれません(失礼のように感じたら申し訳ありません)。

もともとこの最後の2つはなくて誰かが追加した、ということを聞いたこともありますので、そうであれば、その追加した人が現れる前は人牛倶忘が悟りだとされていて、追加した人が最後まで達したものの、その後は最後まで達成した人が少なかった、と言うことのようにも思われます。(個人的な解釈です)

実際は、返本還源はその文字の意味そのままで、まさに文字の意味ストレートであって、ごちゃごちゃ解釈すら不要で、「本に返り、源に還る」、という意味、そのままなのです。ワンネスの源に還る、という、それだけのシンプルなお話です。

一つ前の人牛倶忘でも一応はワンネスでしたけどまだ垣間見た段階で、返本還源において本当にワンネスになります。


十牛図の最後である入鄽垂手は人々を助ける奉仕を行うことです。これは私の解釈も一般的な解釈と基本はそう違わなくて、そのまま読めば良いと思います。ですから、ある種の悟りに至ったならば人々に奉仕をするわけです。

そこに至る階梯も明確です。

第6図 騎牛帰家 静寂の境地
第7図 忘牛存人 ワンネスの始まり
第8図 人牛倶忘 「個」を主体とした視点からワンネスを感じる、ワンネスを受け取る段階
第9図 返本還源 「全体」を主体とした視点として、ワンネスとしての認知が生まれる。ワンネスの側からの働きかけ、認知の始まり。
第10図 入鄽垂手 全体を主体としたワンネスの立場から奉仕する

第8図の人牛倶忘は通説の解説によると(禅的な)悟りを開くという段階に相当していて、表現としてはワンネスということにはなっていますけどまだ個人を主体としているワンネスなわけです。時折「全体」を垣間見ることができる段階です。

通説では8つ目の人牛倶忘が悟りで9つ目の返本還源から先は帰り道ということですけど人牛倶忘が終着地点のはずはないと私は思っていて、私は第9も第10も帰り道だとは思わなくて全て一本道で意識は広がってゆくと思っていますし、それが実感と一致しています。

第8の人牛倶忘にもバージョンがいくつかありますので解釈のしようによっては第8によって完全なるワンネスに達しているという読み方もできなくもなくて、第8が完全なるワンネスだとしたら第9と第10が帰り道の余談でしかないという解説は一応は筋が通っていると言えばそうなのではありますけど、解釈を読む限り、第8が完全なるワンネスだとは思えないのです。

第8では「円」あるいは「白背景」の図になっていて、それはまだ「全体」としての認知が生まれていないのです。

第9でようやく「全体」としての認知が生まれます。そして、それはワンネスの境地が熟成されて高まってきた状態なのです。決して、第9の返本還源は「帰り道」などではなくて、階梯の重要な一歩だと思うのです。このことが解説書に出てこないということは、この返本還源に至った人が少ない、ということなのでしょうか。

第9の返本還源でワンネスが完成して認知が生まれ、少しづつ高まります。そこはワンネスの世界ですから、善悪も含めて全てが含まれています。ワンネスとしての認知とは、善悪を超越するということでもあります。

第10の入鄽垂手においては、ワンネスの立場から奉仕が始まります。全ては「わたし(セルフ)」であるのですから、「わたし」が「わたし」に奉仕する際に、何の躊躇がありましょう。それは自然な形で行われます。入鄽垂手は決して「帰り道」などではなく、ワンネスが高まった故の到達点としての奉仕であると言えます。

(図は「参禅入門(大森 曹玄 著)」より引用)