空性も顕現も同じ、というのは霊的な目においては自明のこと

2022-08-11
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

言うなれば、「何もない空間も神の意識で満ちていて、物も同じく神で満ちている」ということを別の言葉で表現すると上記のように言うこともできる、という、そのくらいのお話なわけです。

「主体の感覚は自然に静まっていき」というのは、物理的な感覚のことを話しているように見えますけど、物理的な感覚はそのままありますので、これはそう言うよりも「物理的な目に加えて、霊的な目あるいは感覚で対象を見ることができるようになり、物理的な目で捉えていた主体という感覚が絶対的なものではなくなり、霊的な目あるいは感覚と合わせて複眼的な視点になる」ということです。「修行者は原初的な知恵を経験する」という言葉は、この霊的な目あるいは感覚で見ることを言っています。霊的な目で見ることでありのままを見ることができて結果として知識を得ることができる、ということです。

「対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識する」と書いてあるのは、肉体の目での知覚が生じるのと同時に霊的な目あるいは感覚でその対象を見ることによって、何もない空間にも物体にも同じく満ちている神の質、それは空性ということもできるでしょうが、その神の質あるいは空性と呼べるものを見ることができるわけです。

それを言い換えれば「空性と顕現の統一の境地」ということもできますでしょうし、「その境地そのものと空性が、ともに存在している」ということも自明なわけです。と言いますのは、「その境地」というのは霊的な目で見る境地ですし、それで見えるのは空性であれば共に存在しているというのは自明なわけです。であれば「すべて同時に経験される」というのも自明で、「全ては一味である」というのは、どちらも霊的な目で見れば神の質であって空性というのであればそれはそういうこともできるでしょうから、もちろん一味なわけです。

理屈として最後に「すなわち主体と対象はいずれも空、ということになる。」と、最後に結論付けていますけど、理屈として説明するのならば最後に来て結論でしょうけど、体験の側からするとそれは「最初」の認識であって、霊的な目あるいは感覚で見ると「主体と対象はいずれも神の質で、空ということもできるでしょう」ということであれば、これは結果というよりは、霊的な目で見た時にわかることであって、理屈の先に来るものです。

実践の前に理屈を勉強するにはこうして結論として説明するのも良いでしょうが、経験の観点からすると、これらは直接的に認知・経験されるものですので、そもそも「結論」として説明する必要もなくて、むしろ自明の認知のお話であるわけです。