奉仕の気持ちが高まってくる

2022-07-30 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

スピリチュアルにおいて奉仕は大切とはよく言われますけど、私の場合、それなりに瞑想とサマーディ(三昧)が高まって愛と感謝が溢れてくるまでは奉仕というのは腑に落ちないでいました。頭で考えて奉仕が大切というのは分かりましたけど、奉仕がそこまで重要だとは昔は考えていなかったのです。

と、言いますのも、私にとって奉仕はある種のトラウマで、若い頃に環境活動やNGO活動で5年ほど色々と関わったことがあるのですけど、その際に、環境活動やNGO活動を自尊心(プライド)の糧にしていたり、影響力を高めるための手段としていたり、他人を無料(ボランティア)で動かそうとする単なるズルい手段と化していたり、行動する人が偉いというヒエラルキーで動いている団体があったりしてそう言う団体を見て馬鹿馬鹿しく感じたり、環境を理由にして他人をコントロールしようとする滑稽な人が割と大勢いたり、自分は大排気量のベンツなどの車に乗って贅沢な暮らしをして別荘によく通ったりしている一方でいつも他人に対しては環境を説いているような行動と言葉が一致していない人がいたり、環境を理由に単にものを売りたいだけの人がいたりして、奉仕活動というのは偽善の塊だと理解してその後は一切、環境活動やNGO、NPOには関わり合いを持ちたくないと思うに至ったからです。

単に搾取のためだけに環境だとかNGO、NPOとか言う言葉を使って、他人のやる気を糧に「やりがい搾取」をして若者を使い捨てにしている構図がそこにあったわけです。そのためにダシにされている発展途上国のスラムだとか貧しい人だとか障害を持った人は、ボランティアでやってくる純粋な人を一定期間の間だけ使った後に捨てて、ボランティアが幻滅したら辞めてもらって次の人に取り替える、と言う形態を、本人たちは「そうではない」と自分に言い聞かせることで自分を騙しつつ活動し、ふと目が覚めて「何やっていたんだろう、私」と幻滅して去ってゆく、と言う人を多く見ました。私も割とその一人だったわけですけど、そのようなことがありましたので、奉仕活動というのは関わってはいけない、というトラウマに近いものがずっとありました。

しかし、割とトラウマも解消してきてそのようなことも記憶の1つになって、更に、ここに来て瞑想も高まってサマーディ(三昧)が高まった今、奉仕という気持ちの割合が高まってきています。かと言って、よく世間にあるような「分かりやすい」形での奉仕活動というものには上記のようなこともあって結びついてはいないのですけど、気持ちの面で、もっと違った形での奉仕の形を模索しています。


スピリチュアルな奉仕活動

結局、物理的に何を助けたとしても、それは短期的には助けになったとしても、長期的には相手の人のためにならないのです、ということな訳で、長期的な物理的な助けというものもあるでしょうけど、それよりは、最も大切なのは精神的な助けであり、スピリチュアルな導きなのかなと思います。

ですから、私の若い頃は分かりやすい奉仕活動とか社会活動に興味を持っていましたけど、そういうものも人間社会においては大切ではありますけど、そのような活動はスピリチュアルな奉仕という基盤を持って初めて物理的な活動が意味を持ってくるのだと思います。

若い頃に知り合った人たちは唯物論者も多くて、「気持ちとか情緒などは不要でエクセルが世界を救う」とか、スピリチュアルを馬鹿にしている人も大勢いて、奉仕というものが単なる機械活動でしかないと思っている人も意外にも大勢いらっしゃいました。一方で、気持ちの面から入っている人も大勢いて、その両者が分離していたように思います。

今わかることは、スピリチュアルのない奉仕活動はほとんど意味がなくて、あるように見えたとしても他人の威光を借りているだけだ、ということ。偽の光とも言うもので、他者の労力を使って自分の権威を高めるために活動している人も業界には大勢いて、むしろそちらの方が大勢を占めていました。国連の援助というのも先日書きましたように本来は満ち足りている世界にあえて不足という状況を作り出した上で援助をすることで権威を集めてコントロールしやすくする、という構図がありました。身近な環境活動やNGO、NPO活動はその縮図で、身近なところでも何がしかの奉仕活動をしてリーダーや団体に権威を集めて人をコントロールしやすくする、という構図があったわけで、そこでうまく駒になれた方が国連などに行って大きく権威を集めて活動する、という、大きな場で活躍するための小さな練習場、みたいな立ち位置があったわけです。そうして、何も知らない一般人がやりがい搾取された上で捨てられる構図があって、一般参加者は様々で中には立派な人がいたとしても、団体の中心というものは権威を集めて人々をコントロールするという図式があるわけです。別に、これが悪いとは言ってはいなくて、世界とはこのようなものである、ということです。

そして、そのような、権威を集めるための奉仕団体、というものがある一方で、単に奉仕の気持ち、というものがあるわけです。奉仕の気持ち、というものは必ずしも行動とは結びついてはいなくて、必ずしも行動によって計られるものでもないわけです。

偽の光の権威団体にしても倫理や理屈を勉強していますから同じようなことは言えて、でも、同じようなことを言ったとしても、本当にわかっているかどうかは別問題で、本物かどうかを見抜くには、見る側の見る目が必要になってくるわけです。


自分が奉仕しても良いという許可を自分の内面から与えられる

どちらにせよ、スピリチュアルにおける奉仕というものは行動とはそこまで関係がなくて、瞑想やサマーディ(三昧)の高まりによって「目覚めて」くるものです。目覚めてくるものですから、今までどれだけ多くの奉仕活動をしていたかどうかとはそこまで関係がなくて、むしろ、たくさんの活動をしてプライドが高まったことにより目覚めの妨げになってしまうことすらあるわけです。であればそのようなプライドを高める活動などしない方が良い場合もあるわけですけど、目覚めというものは活動とは割と無関係にやってきますから、奉仕団体の巧みな口車に乗せられて活動に奉仕する必要はあまりないわけです。無理のない範囲で手伝うくらいはいいかなとは思いますけど。

奉仕の気持ち、というものはスピリチュアルの階梯において割と後の方で、自分の愛に目覚めて感謝の気持ちを感じられるようになり、ワンネスの段階に入ってようやく奉仕、という順番なわけです。自分の愛に目覚めるまでは自分のことしか目に入らなくて自分だけのことしか考えられないですけど最初はそれでよくて、むしろ、最初から他人のことを考えてしまうとスピリチュアルな成長の妨げになってしまったりもするわけです。と言いますのは、「自分はこれだけ奉仕した。自分はこれだけやっている」というエゴが高まってしまいますから、最初のうちは気をつける必要があるわけです。最初のうちは、環境さえ許せば自分からは奉仕せずに、自分のことだけ(瞑想などを)していればいいと思います。自分のことだけしていれば良い人は恵まれていると思います。

そうして自分のことに決着が着くと愛に目覚めて感謝の気持ちが湧き出てくるわけですけど、ここでようやく奉仕の気持ちがほんのちょっとだけ出てくるわけです。ですけど、まだほんの少しでしかないわけです。

その後、愛の気持ちと感謝の気持ち、それはワンネスと言っても良いですけどその状態が普通になって安定してくると、次第に奉仕の気持ちが目覚めてきます。そうしたら、奉仕をしてもいいわけです。奉仕をしてもいい、という、スピリチュアル的な許可が降りるわけです。それ以前にもやりたければ奉仕をもちろんしてもいいわけですけど、それ以前はスピリチュアル的な許可というよりは、義務だったり習慣だったり道徳あるいは他人からの説得によるものだったりするわけです。

ですけど、そのような、外からの働きかけとは無縁に自分の内面からの奉仕の衝動というものは存在してて、スピリチュアルに目覚めていないとその衝動というものは自尊心(プライド)だったり影響力を高めるための手段だったりするわけですけど、スピリチュアルに目覚めた後に出てくる内なる奉仕の活動というものは愛と感謝及びワンネスに根ざしたものであるわけで、そのような段階になってようやくスピリチュアルな奉仕というものに目覚めるわけです。