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奉仕活動がそもそも不要な社会を目指す

2022-08-04
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

自然に奉仕の気持ちが湧き上がってきて、機会があれば奉仕するでしょうし、しないかもしれません。

こと世間にあたっては行動した方が素晴らしい、みたいな風潮があって、確かにそれはある一定まではそうではありますけど、そのように行動だけを見てしまうと本質を見失うことがあって、と言いますのも、人によっては他のモチベーションによって突き動かされている場合もありますし、例えば、賞賛を浴びたいだとか、奉仕する側に立つことで権威を得たい、みたいなモチベーションが多分にあったりします。

昔ながらの王国や農耕民などの部族においては、一旦、財産を王様や酋長に集めてそれから再分配することで権威を王様や酋長に集めるという効果がありました。今の世の中は、実は食べ物は十分に足りているわけですけれどもお金や流通によってあえて「足りない」状況を作り出した上で、それを一旦集めて、それから「再分配」ということを国連やら国やらがすることで中央に権威を集めるということをしています。そのように、中央の権威の人に自分も混じりたいという権力欲が現在の一般社会の「奉仕したい」という人の一定数を占めており、権威を得て偉くなりたい、という欲によって奉仕の行動へと突き動かされている人が一定数いるわけです。

一方で、良い気持ちを持って食糧援助をしているつもりでいる人が、実は既存の支配システムを支えていて意図的に作られている「足りない」状況の歯車の一つになっている、という笑えない状況になっていたりするわけです。

奉仕という気持ちが実は権威を求める権力欲と結びついていたり、賞賛を求める気持ちと結びついていたりするわけですが、そのような権威とか権力欲とかとは無関係に、愛によって奉仕したいという祈りの気持ちというものがあって、そのような愛の奉仕の気持ちは本質的には「行動」とは無関係なわけです。

ですから、行動しているかどうかで奉仕の気持ちは測れないのです。

本来、この世界は全て物や食糧は足りていて、不足はないのです。それをあえて不足の状態にコントロールされているわけで、その枠組みに入って自分が「与える側」という、権力者の側に立つことにどれほど意味があるでしょうか。

それよりも、単純に「分かち合い」を成り立たせることによってそのような「与える側」がそもそも不要な社会にするのが理想であって、それにより、「与える側」という立場はほとんど消滅してしまって権威や権力も無くなってしまうかもしれませんけど、本当に「奉仕」を求めているのならば、目指すべきは「奉仕するという行動」ではなくて、「分かち合い」によって「そもそも奉仕する必要のない社会」を目指すべきなわけです。

そうなれば、たとえ奉仕の気持ちが湧き上がってきたとしても特に奉仕することもない満ち足りた社会になっているわけですから、特に「行動」は不要なわけです。これは理想といえばそうですけど、本来、その方向を目指すべきなわけです。

それでもわかった上で、現状の問題に対処するべく奉仕をして助ける、という選択もあるにはあるとは思いますけど、そのあたりの、場当たり的な対処はむしろ、上に書いたような「権力欲あるいは権威のため、あるいは称賛されたいから人助けしたい」という種類の人に任せれば良いと思います。そのような人であっても、この社会に貢献することができますし、本人が望んでいるのですから、好きなようにやらせてあげれば良いのです。

権力欲や称賛されたいという気持ちも時には役に立ちますので、役に立つのであれば、役立ってもらえば良いと思います。それはきっと、過不足なくこの社会にそのような人は存在しているのだと思います。この社会は、割と、完璧に過不足なく成り立っています。それは、本人たちにとっても良い経験になってスピリチュアルの成長の糧になることでしょう。

そして、一方、このシステムのあり方に気付いた人たちは場当たり的な対処からは手を引いて、根本的な対処にあたれば良いのだと思います。



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