自然に奉仕の気持ちが湧き上がってくる

2022-07-27 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

教義の教えや修行などのために奉仕をしましょう、みたいなお話をよく聞きますけど、教義によって奉仕をするのであればそれはまだ成長の過程であり、まだまだ成長する余地が多分に残されているわけです。

自分のことなど気にならなくなって自然に奉仕の気持ちが湧き出てくるようになるのであって、教義だとか躾だとか習慣だとか礼儀だとか縁だとか色々いう必要すらないわけです。

これは何でもかんでも奉仕すればいいということではなくて、基本のお話なわけです。

この世知辛い世の中にあたっては誰それ構わず奉仕をして何かを与えてしまいますとカモになったり根こそぎ奪われるみたいなことになりますからそこは加減や選択が必要なわけですが、基本は自然に湧き上がる奉仕の気持ちが先にあるのであって、「奉仕をしましょう」みたいに言われる事柄でもないわけです。

ですから、奉仕活動を提案されたとして、手に余るようであれば断っても良いわけです。この世の中、援助ばかりしていてもキリがないですし、自分の生活基盤が疎かになってしまうと元も子もありません。

これは、奉仕活動を否定しているわけでもなくて、習慣や共同作業を否定しているわけでもなくて、自分では必要性を感じていなかったとしても誰かが提起して共同作業を行うということも社会においては必要で、そういうこともあるかと思います。

ここで言っているのは部落の仕事としての共同活動ではなくて人権活動や食糧援助などの奉仕活動のお話ですが、そのように、同意して行う奉仕などの活動と、自然と湧き上がってくる奉仕の気持ちとはお話は別なのです。

それほど同意していなくても誰かに言われて奉仕活動をすることもあるでしょうが、気持ちや祈りの部分を抜きにしてその行為だけを見たときには行為自体にそこまでの超越的な深淵な意味はない・・・ と言ってしまうと語弊がありますけど、それはもちろん誰かの助けにはなっているには違いないでしょうし、必要な活動なわけですけど、それは日常生活の延長線上のことであって、割と普通のことなわけです。

これは、意味とか超越的な深淵さを求める必要すらなくて、ただ必要だから行動する、というそれだけなわけです。それに加えて、祈りがある人は行動していても行動していなくても祈りや奉仕の気持ちがあるでしょうし、奉仕の気持ちと共に行動していようが行動していまいが、奉仕の気持ちと祈りには違いがないのです。

人助けをしているのに普通のことだとは何ということか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、それは大抵の場合、問題解決になっていなくて、延々と続く日常作業になってしまっているわけです。そのような、延々と続く終わりがない奉仕活動と、祈りの気持ちだとか奉仕の気持ち、というのは割と別で、切り離して考えるべきなわけです。


奉仕活動がそもそも不要な社会を目指す

自然に奉仕の気持ちが湧き上がってきて、機会があれば奉仕するでしょうし、しないかもしれません。

こと世間にあたっては行動した方が素晴らしい、みたいな風潮があって、確かにそれはある一定まではそうではありますけど、そのように行動だけを見てしまうと本質を見失うことがあって、と言いますのも、人によっては他のモチベーションによって突き動かされている場合もありますし、例えば、賞賛を浴びたいだとか、奉仕する側に立つことで権威を得たい、みたいなモチベーションが多分にあったりします。

昔ながらの王国や農耕民などの部族においては、一旦、財産を王様や酋長に集めてそれから再分配することで権威を王様や酋長に集めるという効果がありました。今の世の中は、実は食べ物は十分に足りているわけですけれどもお金や流通によってあえて「足りない」状況を作り出した上で、それを一旦集めて、それから「再分配」ということを国連やら国やらがすることで中央に権威を集めるということをしています。そのように、中央の権威の人に自分も混じりたいという権力欲が現在の一般社会の「奉仕したい」という人の一定数を占めており、権威を得て偉くなりたい、という欲によって奉仕の行動へと突き動かされている人が一定数いるわけです。

一方で、良い気持ちを持って食糧援助をしているつもりでいる人が、実は既存の支配システムを支えていて意図的に作られている「足りない」状況の歯車の一つになっている、という笑えない状況になっていたりするわけです。

奉仕という気持ちが実は権威を求める権力欲と結びついていたり、賞賛を求める気持ちと結びついていたりするわけですが、そのような権威とか権力欲とかとは無関係に、愛によって奉仕したいという祈りの気持ちというものがあって、そのような愛の奉仕の気持ちは本質的には「行動」とは無関係なわけです。

ですから、行動しているかどうかで奉仕の気持ちは測れないのです。

本来、この世界は全て物や食糧は足りていて、不足はないのです。それをあえて不足の状態にコントロールされているわけで、その枠組みに入って自分が「与える側」という、権力者の側に立つことにどれほど意味があるでしょうか。

それよりも、単純に「分かち合い」を成り立たせることによってそのような「与える側」がそもそも不要な社会にするのが理想であって、それにより、「与える側」という立場はほとんど消滅してしまって権威や権力も無くなってしまうかもしれませんけど、本当に「奉仕」を求めているのならば、目指すべきは「奉仕するという行動」ではなくて、「分かち合い」によって「そもそも奉仕する必要のない社会」を目指すべきなわけです。

そうなれば、たとえ奉仕の気持ちが湧き上がってきたとしても特に奉仕することもない満ち足りた社会になっているわけですから、特に「行動」は不要なわけです。これは理想といえばそうですけど、本来、その方向を目指すべきなわけです。

それでもわかった上で、現状の問題に対処するべく奉仕をして助ける、という選択もあるにはあるとは思いますけど、そのあたりの、場当たり的な対処はむしろ、上に書いたような「権力欲あるいは権威のため、あるいは称賛されたいから人助けしたい」という種類の人に任せれば良いと思います。そのような人であっても、この社会に貢献することができますし、本人が望んでいるのですから、好きなようにやらせてあげれば良いのです。

権力欲や称賛されたいという気持ちも時には役に立ちますので、役に立つのであれば、役立ってもらえば良いと思います。それはきっと、過不足なくこの社会にそのような人は存在しているのだと思います。この社会は、割と、完璧に過不足なく成り立っています。それは、本人たちにとっても良い経験になってスピリチュアルの成長の糧になることでしょう。

そして、一方、このシステムのあり方に気付いた人たちは場当たり的な対処からは手を引いて、根本的な対処にあたれば良いのだと思います。