日本を中心とした太平洋沿岸の共栄圏には分かち合いと自由があった

2022-05-29 記載
トピック:スピリチュアル: 歴史

とあるタイムラインの物語です。

これから、別のタイムラインにおける、一つの理想形としての「分かち合い」社会がどのようなもので、どのように破滅したのかの流れを大まかに追っていきたいと思います。

そのタイムラインには日本を中心として太平洋沿岸の地域を包括した共栄圏が存在しており、その中の領域では分かち合いが実現されていて、人々は幸せに暮らしていました。

一方、今の世の中はと言うと、言わずとも知れたことではありますが経済的に困窮したり生活の為に長時間働かなくてはならなかったりと、なかなか苦しいこのタイムラインになっています。

今のこの世の中の価値観に基づくと、スピリチュアルをするにはある程度の経済的自由が必要、というお話になります。忙しすぎたり貧乏すぎたりするとなかなかスピリチュアルに使う時間が取れなくなるのも事実です。もう少し景気が良くならないと貧困から抜け出せる人がなかなか増えずに、更に精神的に酷い未熟な世の中になってしまったりするかもしれません。景気を良くするのは実は簡単で、国の政策でそのようにすればいいだけです。自治体の事業で国民に動いてもらうなら無料なので色々やったら良いわけです。そうすれば景気が良くなってスピリチュアルもしやすくなります。

そのように、今のこのタイムラインの価値観はお金に基づいていますけど、共栄圏では、そもそもお金のやり取りをするべき活動の領域が限定されていて、生活の必需品や食べ物および住居などは、多少のお金は一応は払ったりもしますけど、基本的には分かち合いをしており、スピリチュアルな活動をしやすいタイムラインであると言えます。

共栄圏を見ると、国内の活動に関してはあまりお金をかけないかあるいは自発的にそれぞれの人が自分の役割を果たしながら行っていて、外国に支払いをする時はきちんとお金を払っていたように思います。共栄圏の中に関しては飢えがありませんので、各自の好意によってお互いに助け合って活動することが基本になっているわけです。

このことを踏まえて今のこのタイムラインを見ると、気付くことがあります。

まず、自治体は、国民が動くならタダで、外国に払うならまるまるコストになる、という原則がわかっていない政治家が意外に多いことがわかります。日本円なら紙を刷るだけですけど外貨の支払いは外貨を海外からまず仕入れないといけませんから、まず先にコストがかかるわけです。日本円なら先に紙を刷った後に支払いを日本人にして、そのお金がまた市場にまわりますので経済か活性化します。外国に払ったら国内の経済が循環しません。

これは極端なお話で、必ずしもそれだけでもないわけですけど、例えば最近ではソーラーパネルとかで、値段が高いから海外のを買うとかしているわけですが、国内で作ればタダなわけです。既にソーラーパネルは国内産業が成り立たなくなっていますけど、それは値段だけを比べているからそうなるのであって、国内で国民が動いてくれるのならばタダだと思えば多少は高くても国内に発注すればいいわけです。

こんなこと言うと材料費はかかるだろうとか思われるかもしれませんが、ミクロに見れば色々とあるでしょうけどマクロに見るならこのような考え方が正しいわけです。政治家や首相、あるいは県知事のような大きな視点を持つべき立場であればこのようなマクロな基本スタンスで日本人を使って行くという考え方が基本に来るべきなのです。

この考え方が主流になれば不況なんてあっという間に解消すると思います。

別のタイムラインの共栄圏では資源など自然のものは共有財産として認識されていて、必要な分だけ取る、という原則が守られておりましたので、人件費にしてもあまり気にすることなくてお金としては雑費くらいしかかかりませんでしたので、資源の調達の心配などはほとんどありませんでした。共栄圏は広くて、資源調達に苦労はしなかったように思います。資源があればあるなりにやりくりしましたし、ないならないなりにやりくりしましたので、特に困ると言うことは無かったように思います。


■ただの紙切れの紙幣で国が侵略されている

今の時代はお金しか見えていなくて、唯物論になっているのでしょうね。お金が全てで、お金が大事だと思っているのでしょう。実際にはお金はただの道具で、暇している人がいてお金がないならお金を刷ってお金を用意してから仕事をしてもらえば良いだけです。お金なんてのはただの道具なのですから、人が暇していて仕事の需要があるのにお金がないならお金を刷れば良いだけです。誰もがお金を刷れたら意味不明になってしまいますから、そこは歯止めとして自治体が適度に刷れば良いわけです。特に、国内に人が暇しているのならその人に動いて貰えば、元々暇していた人に動いてもらっているのだから国としては出費はゼロなわけです。国民が動いてくれるのならば、無料なわけです。

これがスピリチュアルと何の関係があるのだろうかとお思いかもしれませんが、まず景気が良くならないと人々にスピリチュアルをする余裕が生まれない、と言うのが1点。もう1点としては、精神的な重みがわかって、お金以上のものの価値を認めて、皆に幸せになってもらいたいと思う人がまず一般大衆に増えることでそのような政治家が選挙で選ばれて政治が変わって行くわけですから、このあたりを一般人が理解することがまず大切なわけです。そうすることでスピリチュアルな世の中に変わって行きます。

その切り口として、この辺りが重要かなぁと思うわけです。

海外に払うための外資を稼ぐのはかなり大変ですけど、国民なら頑張って働いてくれます。暇している人たちがいて、しかもやる気はあると言うのなら日本円を刷って働いて貰えばいいわけです。

この、外貨という考え方は共栄圏でも重要で、外国への支払いは時代によって銀だったり何かだったりしたわけですけど、外国への支払いは共栄圏でもそれなりに負担にはなりました。ですけど基本的には共栄圏の中で経済が回っておりましたので、経済的に不自由のない世界だったように思います。

今はかなりお金が刷られている状態で、コロナの助成金とか何やらで一部がガッポリと貰ってしまっている状況が多いように思いますが、この考え方が浸透するとそのお金がもっと末端にまで流通して仕事が行き渡るように思いますが、どうでしょうかね。

それと合わせて、土地など本来は売買の対象ではないものは流通を減らす方がスピリチュアル的には良いです。共栄圏では土地は基本的に売買の対象ではありませんでした。自身の基盤としての土地などは確保した上で、日常の衣食住は確実にした上で要求があればお金をもらって仕事をする、という状況になれば良いわけです。土地など本来は売買すべきものではないものがお金がないからという理由で売らなくてはならない状況こそが侵略でもあって、お金がないから外国に土地を売り払ってしまうという今の状況は、外国を静かに侵略するためにお金が至上という価値観を100年以上に渡って植え付けてきて、最後の仕上げとして、お金で本来は売るべきではないもの(土地など)を外国に売ってしまうという段階に来ているわけです。外国への侵略の最終段階に来ているわけです。これから人々を貧乏にした上で外国に土地を売り払う人を続出させればまさに思う壺なわけです。侵略する側からすればただの紙切れで国が侵略できるのですから笑いが止まらないでしょう。

ただの紙でしかないお金で、国が侵略されているわけです。こういうのを防ぐのも本来はスピリチュアルの役割であるわけですけど、のほほんとしたキラキラスピリチュアルではこの辺りのことはなかなか言及されていないのがなかなか残念ではあります。侵略が完了した後に、未来の教科書に「このようにうまく紙切れ(の紙幣)で国を侵略して占領し、属国にした」と書かれる状況もありえるでしょう。まだ今なら防ぐこともできますけど。

そうなったら奴隷みたいに扱われますので(奴隷とは言わないでしょうけど)、スピリチュアルどころではなくなります。一日中、馬車馬のように働かされる未来もあるでしょうね。スピリチュアルな生活を続けたいなら、このような侵略を積極的に防ぐ必要があります。


■地球が滅亡しなければラッキー、くらいに思っていた方が良い

時代が暗くなって不況になってコロちゃん騒ぎの茶番で製薬会社がボロ儲けしていたとしても、それでも地球が滅亡しないだけラッキー、というくらいに思っていた方が良いと思います。少しでも世界の支配者が不満を漏らしたら欲求の捌け口に核戦争を起こして地球を破壊してしまったり大陸を吹っ飛ばすなんてことは今までのタイムラインで何度も起こってきていて、今回のタイムラインのチャレンジで地球が吹き飛んでいないだけマシなのです。

貧乏で苦しいかもしれないですけど、地球があるだけマシなのです。地球で大規模な核戦争が起きていないだけマシなのです。現代では奴隷とは言わないかもしれないですけど奴隷に近い立場の人が大勢いたとしても地球があるだけマシなのです。株式市場でボロ儲けしている人がいて不平不満があるかもしれないですけどそれでも地球が吹き飛んでいないだけマシなのです。

今まで一番いいパターンではヨーロッパや大陸の大半が核戦争で吹き飛んでいましたし、地球が割れて人類滅亡する方が割合としては多くて、たぶん30回くらいはタイムラインを少し1900年代に戻してやり直したりしてますけど6割くらいは地球が割れて人類終了、1割は地球が粉々、3割は大陸が吹き飛ぶ、という感じでしたので、今回のタイムラインで今まで地球が長持ちしていたのは、一つの理由としては今回のタイムラインでは現代の支配者層が支配する領域が以前より遥かに広いのです。

今までのタイムラインは織田信長が生き残って太平洋沿岸まで支配することでアメリカ西海岸や南米およびアジアの沿岸部を含んだ共栄圏を作ったものを基本としていて、そちらのタイムラインは行き詰まってしまったので一旦「凍結」状態にして、織田信長が太平洋沿岸を支配せずに自分は引退して、日本は今の日本列島だけで鎖国をするというシナリオを試したところ、日本以外の国が欲望だらけの状態になって、それ故に、今の世界の支配者層が満足して地球を吹き飛ばさない、という状況になっています。

おかしいとは思いませんか。何故に日本だけが割と平和で、世界の他の国がことごとく欲望に生きているのか。もちろん小さな国でそうではない国もあってブータンとかありましたけど資本主義の導入によって文化がどんどんと侵食されています。実際のところ、織田信長が作った太平洋沿岸の共栄圏ではお金という価値が全く違って解釈されていて、お金はあるにはありますけど、みんな持っているから一応お金を渡す、というくらいのものになっています。そもそも暮らしに困っていませんし、人々は皆、楽しく暮らしていて、分け合って平等に生きています。まさに楽園です。そのような共栄圏があっても、欲望だらけの欧米の国々が、タイムラインによってそれぞれ違う国が発端となって、とある時はこの国、次はこの国、みたいに不和を起こして、どこかが核戦争のトリガーになって地球を吹き飛ばしてしまっていたのです。そうして、太平洋沿岸の楽園も一緒に滅亡していました。

今のタイムラインは、そのような太平洋沿岸の楽園を日本がわざわざ自分から諦めて鎖国して日本に引っ込んだからこそ、地球が継続しているのです。それは、いわば、「地球が滅亡するのなら仕方がないな・・・」ということで手をひいたのでした。そのくらい意図的に、全てを分かった上で身を引いて鎖国への道を日本は選んだのでした。地球の存続のために仕方なく大人しくしている日本に対して諸外国は恥知らずにも各種の嫌がらせや土地の購入などで日本を静かに侵略していますが、日本がなければとっくの昔に地球は粉々になっていたというのに、恩知らずの図々しい人が多すぎます。


■ライトワーカーが支配者層の懐に飛び込めば地球は良くなる

太平洋の沿岸、世界の約半分が日本だったタイムラインにおいては世界の半分の人口がそこに住んでいたわけで、その半分の人からしてみたら日本が太平洋沿岸を収めて共栄圏を作っているタイムラインの方が絶対的に幸せで、その共栄圏では飢えもないし貧困もないし皆が平等で暮らしていたわけですけど、それを横で見ているヨーロッパやアメリカ東海岸の西洋人たちが不満を抱えて何度も戦争を起こしていたわけです。

最初は、お金を使って日本の財産や土地を購入しようとしましたけどそのタイムラインの日本の土地というのは基本的に売り買いの対象になっていなくて、土地は代々と受け継がれてずっと保持していて、食べ物も共有みたいなものでしたから飢えもなかったのですけど、そんな状況ですと外国の人が日本の土地を購入しようとしても全く相手にしてくれないわけです。

日本の土地を少しずつでも手に入れたい外国勢からすれば、お金で買うこともできず、戦争でも勝てず、不満が溜まっていたのでした。戦争は西洋諸国間で起きて、巻き添えで地球が粉々になったり大陸が吹き飛んで気候が大きく変わってしまったりしていました。そのタイムラインにおいては、少なくとも太平洋沿岸の共栄圏では平和で今のような世界的なおかしな出来事は起きていなくて、それ故に、世界征服したい西洋の国々が戦争を仕掛けて核爆弾を使い、被害が少ない場合でも大陸丸ごと吹き飛ばすか、勢い余って地球を吹き飛ばして人類滅亡さえてしまっていたのでした。

何度タイムラインを遡ってやり直してもダメで、ほとほと困り果てたのです。

それで、そのタイムラインが行き詰まって、それ故に、時代を遡り、そのことを感知した織田信長は全てを理解して自ら引退して(彼は死んではいないです)、今のタイムラインに繋がっています。

ですから、今のタイムラインは、せいぜい地球が存続すればラッキー、というくらいのお話で、あまりにも地球を良い世界にしてしまうと支配者が不満を抱えてまた地球を吹き飛ばしてしまうかもしれない、と言いますかほぼ高確率でそうしてきますので、あまり時代を動かせないのです。

世の中を良くしようとすれば地球が吹き飛ばされてしまい、かと言って支配者層の思いのままにさせてしまうとますます変なことになる。そんな世の中が今の現実なわけです。

そんな世の中に対して個人ができることはそうは多くはありませんし、上記のような状況ですと世の中を変えようとすればするほど地球を危機の状況に追い込んで地球滅亡を引き起こしますので、あまり無理せずに、適度に生きてスピリチュアルな修行が少しできれば満足、くらいに思っていた方が良いと思います。

神様に近い存在の介入があれば別ですけど今のところ慣性でなるようになる、という状況でしかなくて、この状況ですと、支配者層が愛に目覚めるしかない状況ではあります。

一応、解決の手段はあるにはあって、今はライトワーカーが遠くから眺めて非難したり自分達だけで安全圏を作ろうとしていますけどそれでは地球の問題は解決しなくて、ライトワーカーたちが自分達のところでこぢんまりと収まるのではなくて地球の支配者層の気持ち悪い人たちの近くに転生をしてその懐に入り込んで、とにかく気持ち悪くて最悪な地球の支配者層をその近くから少しでも光の道に導くよう身を挺して貢献することができれば地球は良くなる、という道は示されています。ですけど、現時点ではライトワーカーは支配者層を毛嫌いしていて近寄ろうともしませんので、なかなか地球は救われない状況ではあります。

今のところ、その共栄圏のタイムラインはいわば「凍結」状態になっていて、もう少し時間を遡ってやり直すこともできますけど、今は、地球が粉々になってちょっと先くらいの時間で凍結になっています。

今のこのタイムライン上においてその共栄圏を助けることができる鍵のようなものが見つかれば、その後に凍結状態を解除してタイムラインを遡ってやり直すことも考えられますけど、今はまだ鍵が見つかっていなくて、模索中のようです。

今のタイムラインはかなり酷いですけど、この今のタイムラインで鍵が見つかれば共栄圏のタイムラインにそのノウハウを並行展開してやり直して地球を存続させ、そうすることで少なくとも地球の半分においては平和で貧困のない世界が存続することになりますけど、今のところその鍵はまだ見つかっていなくて、この今のタイムラインは割と実験的なタイムラインで、どうしたら地球が良くなるのか、模索している状況であるわけです。

そして、その鍵がおそらくはライトワーカーが支配者層の懐に飛び込むことかな、と思っておりますけど、その答え合わせはこれからになります。


■支配できない世界であれば破壊してしまえ、という本音

とあるタイムラインにおいて織田信長が起点になり作られた共栄圏は行き詰まって地球が破壊されることを避けられなかったために今は凍結状態になっているわけですけれども、その共栄圏は、かなりの部分で今の人たちが目指すべき理想の社会を実現していたと言えます。

その共栄圏にもお金は一応ありますけど、お金は一応渡すというくらいの重みしかなくて、困っていたら分け与える、という原則が守られています。

これは、信じられないかもしれないですけど実際に存在していた世界です。分かち合いのシステムは完全に稼働して、資源は守られ、貧困もなく、うまく回っていました。ただ、問題点としては、支配者層が支配できない、という点だったのです。

今、世界を思いのままにコントロールしている支配者層の影響力は共栄圏にまでは及んでいなくて、欧米諸国が何か資源なり土地なりを奪おうと思ったり大量に仕入れようと思っても、共栄圏は分かち合いの原則に基づいて、必要な分しか分け与えませんでしたので独り占めして支配したい欧米諸国は不満が高まっていたのでした。

ある意味、そのように、支配できない世界であれば破壊してしまえ、というのが欧米諸国の本音なのです。

ですから、日本が存在しなくてあちらの思うがままにさせていたら地球はほぼ確実に破壊されていて、日本のような国が世界の不均衡を多少ながら是正してかろうじて地球が破壊されないように保っているのに、全く恩知らずにも日本を非難したり馬鹿にしたり搾取の手をむけてきたり土地を買い漁ったり、自分達が誰のおかげで生きながらえているのも知らずに厚顔無恥を繰り返す有様は、恥知らずの恩知らずにも程があります。

今まで、日本の神々は地球存続のために、ということで我慢に我慢をしてきて、自分達が我慢することで地球が存続するのであればそれでも構わない、と思ってきました。以前にも少し書きましたけど、日本の神々は地球を救うために、いわば実験のような形で日本から戦争を仕掛けることを画策して、それまでの多岐に渡る数々のタイムラインにおいて日本は自分から戦争を仕掛けるということはほとんどなかったわけですけど(あるにはありましたけど)、今回のタイムラインのように核爆弾の威力がまだ弱いうちに戦争をすることで核戦争の歯止めになることを狙って、伊勢神宮の巫女を通じて神様の言葉を下ろして戦争をさせたのでした。しかも、負けると分かっている戦争を「勝つ」と言って戦争を始めさせました。その経緯はなかなか苦しい状況でしたけど、それでも、その結果としてこの世紀末を何とか乗り切って地球が存続しています。

今はまだ日本がかろうじて形を保っていますけど、日本の文化がこれ以上に衰退して西欧的になったら核戦争を阻止する人たちがいなくなって割とあっさりと大陸が吹き飛ぶか地球が割れて人類消滅になります。何度も地球が吹き飛ぶタイムラインを見てきましたけど、死ぬときは一瞬ですから、それほど心配する必要はありません。そこまで苦しまずに酸素不足で気を失って重力も減って中に浮いて、天にも昇る気持ちで意識が朦朧となって死にますから、ほとんどの人は苦しまずに人類が滅亡します。今回のタイムラインではそれを防ぐか、あるいは、防ぐための鍵を探っているような状況ですし、地球を今の支配者層にほとんど支配させたことで一旦は彼らのエゴが満足していますので、すぐに地球滅亡ということにはならなさそうです。理想的な世界になればなるほど地球滅亡の危険が高まるわけで、今は割と支配者層が満足していますので、すぐに地球が吹き飛ぶことにはならないのです。それゆえに、地球が継続する代わりに、分かち合いの社会からは遠く離れた世界になっています。地球が存続しさえすれば、分かち合いがなくても仕方がない、という選択が今の結果のようです。

ですけど、次第に、日本の神々にも不満が溜まってきました。自分達がこれほど犠牲になっているのに、外国の悪魔のような支配者は全く感謝していない。これなら、もう救いはないのではないか、と。


■ヨーロッパが吹き飛んでいるタイムラインが復活するかもしれない

今まで、何度となく世界を救っていたのは、その原則として「全員が助かる」という前提がありました。

ヨーロッパが核爆弾で吹き飛ばされないよう助けるためにタイムラインを遡ってやり直したのでした。北米アメリカ大陸(タイムラインによって東海岸だったり全土だったり)が核爆弾で吹き飛ばされずに助かる。そのために、タイムラインを遡りました。地球が割れて大気が吹き飛ばされて人類滅亡さえずに助かる。そのために、何度となく、タイムラインを遡りました。割と大抵の場合は共栄圏は戦争に巻き込まれていなくて、欧米諸国の小競り合いが発展して核爆弾で勢い余るか本当の威力というものを知らずに使って大陸を吹き飛ばしたりしてきました。ですから、そのタイムラインのほとんどにおいて、大陸が吹き飛んだとしても共栄圏は無事なのです。もちろん地球が割れた時は人類滅亡ですけど、ヨーロッパが吹き飛んだタイムラインも神様は救おうとしてきました。

日本の神々、及び、大天使たちは大陸が吹き飛ばされて大勢が死ぬことを防ぐために色々と策を練っていたのですけど、何度となくタイムラインをやり直した結果、ここにきて学んだことは、「今までどうやっても地球が吹き飛んでいて、今回のタイムラインでせっかく地球を何とか継続させることができているけれども、この奇跡的な状況が叶って改めて気がついたのは、このような形で存続したところで、人々は幸せではないのではないか」ということです。

今まで、神々及び天使たちは、「全員一緒に助かること」を大前提にしていました。ですから、悪魔のような気持ち悪い欲望だらけの支配者であったとしてもその人たちも合わせて全員助けようとしていました。

ですけど、ここに来て、「せっかく地球が存続したのに、こんな世の中になってしまって、しかも、日本の人たちの心がこんなにも欧米の価値観に侵食されてしまって、これでは、存続しても意味がないのではないか」と思い始めてきています。

これは、このタイムラインが破棄される可能性を示唆していて、この今のタイムラインが「凍結」状態になって、例えば、一番最初のタイムラインではヨーロッパが核爆弾で吹き飛んで世界の気候も大きく変わったのですけど、最初はそのような状況が受け入れがたくて苦しくて、なんとか救おうとしてタイムラインをやり直したわけなのですけど今の考えとしては「その、一番最初の、ヨーロッパが吹き飛んだタイムラインが一番マシなのではないか」と思い始めています。実はそのタイムラインは無くなったわけではなくて、そこで「凍結」になって、半ば破棄された状態になっているのですけど、そこを継続しようとすれば一応は継続できるのです。一旦は捨てたタイムラインではありますが、それが見直される可能性があるのです。

ヨーロッパが吹き飛んだ時に、もし神様が「欧米の自業自得だ」とか考えていたのであればそのまま受け入れられていたことでしょう。ですけど、神様はヨーロッパが吹き飛んだことを嘆き悲しんで、それは良くない、と思って、タイムラインを破棄してやり直したのでした。ですけど、いくらやり直しても地球を吹き飛ばしてしまう支配者に対してもうなすすべがなくて、せっかく今回のタイムラインで地球全土をほぼ支配させてあげたのに恩知らずにも日本までも精神的に物理的に侵食し始めて、一番大切な精神を地球の全土において腐敗させてしまうくらいなら、それよりは、ヨーロッパが吹き飛んだタイムラインの方が幾分かマシなのではないか、と思い始めているのです。

もしもこの考え方が神様の中で主流になってその選択が神様及び大天使の方でなされたとすると、今のこのタイムラインが「凍結」状態になって、その、ヨーロッパが吹き飛んだタイムライン(それもまた今は凍結状態なわけですが)が再開されます。

そうすると、今いる人々の「意識」はそちらに切り替わって、大勢が、その、ヨーロッパが吹き飛んだタイムラインで動き出すことになります。そのタイムラインでは欧米の支配者層は自分達が支配しているヨーロッパの土地などを吹き飛ばしてしまったが故に痛い目を見ており、実際のところ、その後、やけになって共栄圏に戦争を仕掛けてこないとも限りません。ですから、予断を許さない状況ではあるのですが、あのタイムラインの続きを試してみようか、という動きはあるにはあるのです。

ですけど、他にもまだ選択肢はあって、まだ確定はしていない状況です。現時点では他の選択肢の方があり得るような気がしておりますが、まだまだそこは流動的ではあります。


■自然の資源は取りすぎないのが原則

その、共栄圏のあり方は今の日本および世界の行く末に対して多大な示唆があって、今の資本主義とは有りようが大きく異なっています。

まず、今の資本主義社会の問題点として、自然の資源を取れば取るほど裕福になる、という問題点があります。例えば海洋資源や鉱物の資源、あるいは農作物や山林の資源も含まれますけど、それは元々そこにあるものですから、元々あるものを取るだけでお金に変えることができるということは、資源を素早く取れば取るほど人が裕福になるということです。その裕福になることがどれだけ重みを持っているかということですけど、お金が足りなくてお金を集めないと生きてゆけない世界であればその裕福さにそれなりの意味があるわけですけど、共栄圏では、そのように、自然の資源に対しては経済活動をしない、という原則が定通しているのです。

経済活動は人の営みになるべく限定して、自然の資源は共有資産とし、必要なものを必要なだけ取る、という原則が守られています。これは原則であって必ずしも全てがそうではなくてある程度の経済交流が何にでもありますけど、今の資本主義社会のように経済ありきではないわけです。

一方、そのタイムラインにおいても共栄圏以外の部分では海洋資源や鉱物資源が今のように勢いに任せて大量に取得及び消費されており、資源が豊富(のように見える)である共栄圏は欧米諸国から羨望の眼差しで見られていました。実際には、海洋資源にしても必要なだけしか取りませんでしたので太平洋の資源は守られている一方で他の海では乱獲していて資源が減っていたり、あるいは、鉱物にしても急ぎに任せて大量に掘って大量に売り捌いていましたので鉱山が枯渇してしまっていたのでした。

共栄圏はまさに循環型社会が実現できていたわけですけど、その根底にあるのは、自然の資源(鉱物、海産物、そして農産物も)を経済活動の対象にしないという原則で、それ故に、それらは基本、分かち合いをしていて、食には困らず、住居はそれなりに人々が融通しあって、土地は代々の由緒ある家が長く引き継ぎ、思いやりのある世界を実現していたのでした。

ですけど、そのような理想的な社会は、他人から奪いたい強欲な人や、あるいは、他人を羨む妬み深い人からしてみたらストレスでしかなくて、どうして自分達はこんなに苦しんでいるのにあの共栄圏はあれほど豊かなのだ、と、欧米の不満が日に日に高まり、それに拍車をかけるように共栄圏の方からも欧米の国々に対して「奴隷をいまだに使っていて人の命を何とも思わず、とても酷い国だ」と思って罵っていたがために歩み寄るということがほとんどなかったのでした。


■分かち合いシステムが共栄圏で作られた経緯

そのように、歩み寄りが少ない、という問題点はあれど、少なくとも、共栄圏の分かち合いのシステムはとてもうまく動いていて、その原則として、自然の資源は経済活動の対象にはしないで必要な分だけ取って分かち合いをする、という共通認識があることでうまくシステムが回っていたのでした。

このシステムは、今の世界にも適用可能だと思います。

元々は、この部分に関しては日本から言い出したことではなくて、共栄圏は大統領選挙みたいに4年くらい毎にリーダーを選出するのですけど、確か今のオセアニアの小さな国のどこかが政策を提案して、それが通ってこの原則がその後ずっと継続したように思います。

その前段階として、今のタイムラインでは織田信長が一向一揆を皆殺しにしていたりしますけどそのタイムラインではそれは起こっていなくて、共栄圏のタイムラインにおいては本当に食べ物がない状況を確認した上で恩赦をしていて、農民を皆、公務員にした上で土地も藩の所有にして、地主もそれなりの給料で公務員として雇い、まずは食べ物に関して共有財産にしたのでした。その土台があった上で、その制度を全国に広め、更には、時が流れた後に、そのようにオセアニアのどこかの国が主体となって原理原則を打ち立て、それによって自然の資源は経済活動の対象にしない、という原則が定着しました。

不思議なことに、そのように人々の基本的な暮らしが守られることにより、人口増加も自然に緩やかになって、ある一定の人口で安定あるいは微増になったように思います。これは狙って行っていたことではありませんが、結果として、後の時代から見て、その効果が検証されました。

思うに、人々は自分の老後の不安があるからこそ何人も子供を産んで将来を安泰にしようとする心理が動くわけで、老後の心配をする必要がなくて衣食住も国のシステム及びコミュニティによる分かち合いによって支えられていて不安がないのであれば頑張って子供をそこまで作らないのかもしれません。

人口が増えず、食糧生産は機械化により十分で、アメリカ西海岸及び中部の豊かな穀倉地帯もあり、海洋資源も取りすぎずに海の営みが保たれれていて、木々も保全及び植林がなされて適切に取得していれば、まさに何も困ることのない、理想的な社会を実現できていたと言えます。

その、理想的なタイムラインは、欧米の核爆弾によって吹き飛んでしまっています。欧米からしてみたら、そのように搾取できないシステムは面白くない、ということなのでしょう。余談ですけど、今の現実においてもこの「面白い」というキーワードは搾取者を見分ける良い方法の一つになっていて、「面白い」という言葉のニュアンスによって搾取者かどうかを見分けることができるように思います。必ずしもその言葉が直結しているわけではありませんけど、そのような「面白い」という言葉に搾取あるいは他人を困らせるというニュアンスが含まれている場合は、欲望に塗れた支配者がうまく言葉を隠して表現してはいるものの、その言葉の隙間から本音を垣間見ることができて、搾取者を見分ける良いヒントになる時があるように思います。

実際、理想的な社会は「面白い」というよりも「幸せ」な社会で、とても暖かい世界な訳です。この辺りに、未来の行く末の理想図としての方向性の違いがあるわけです。面白い社会を目指すのか、あるいは、幸せな社会を目指すのか。意外にこの辺りは大きな違いになってくるわけです。


■救世主、というのは支配者たちにとっての救世主(メシア)

キリスト教で救世主(メシア)が現れるとか言われていて、それはキリスト教徒の救世主かと思われていますけど、実際のところ、それは支配者たちにとっての救世主なわけです。どうしてそういうことになるかというと、実際のところ、世界が救われるかどうかは支配者たちが愛に目覚めるかにかかっており、一般大衆がいくら目覚めても支配者たちが目覚めなければ核爆弾で地球を吹き飛ばしてしまう未来しかやってこないからです。

良くて大陸が吹き飛んで気候が大きく変わってしまう未来で、悪ければ地球を割って大気を吹き飛ばして人類滅亡にしたり粉々にしてしまいます。今の支配者層にとってみれば、支配を終わらせるくらいなら地球を巻き添えにするという選択肢しかないわけです。

ですから、いくら支配者層を排除しようとしても地球を破壊するという事項と本当にセットになっていますから支配者層を排除という選択肢はなくて、地球が救われるためには支配者層が目覚める必要があるわけです。

だから、ライトワーカーたちがしなくてはいけないのは一般市民たちを助けることよりも(それはそれで大切ではありますけど)、支配者層の懐に飛び込んで、支配者層を内側から啓蒙して支えて愛に目覚めさせることなのです。

実際、そのように懐に飛び込んだライトワーカーたちも大勢いましたけど、かなり返り討ちに合うかあるいは欲望に染められてしまって状況が悪化したりしています。ですけど、そんな状況ではありますけど、更に飛び込むしかないわけです。

今の状況では、支配者層に近づくライトワーカーとか懐に飛び込むライトワーカーたちは他の大勢のライトワーカーたちから理解されていなくて、そのように真っ黒な支配者層に近づいたライトワーカーはオーラが汚れてドス黒くなってしまって、他のライトワーカーたちから「オーラが汚い」だとか「汚れてしまった」みたいに堕落した扱いを受けていて、かなり理解されない状況になっています。

ですけど、本当に必要なのは、オーラが汚くなろうが、気持ち悪くて近くに居たくないと思おうが、そんなことをも乗り越えて支配者層を愛に目覚めさせることを目指して懐に飛び込むライトワーカーたちなのです。

今はかなり理解されてない状況で、その中には堕落して本来の目的を見失って欲望に身を投じてしまっている人もいますけど、助けに入るライトワーカーが増えれば増えるほど一人一人の負担が減って、支配者層を目覚めさせる余地が少しづつ出てくるわけです。

そして、そのようなライトワーカーたちの中から救世主が出れば、その時は、支配者層の心持ちが変わって愛に多少ながらでも目覚めて、そうすることで地球が救われるわけです。

一般大衆が目覚めればそれはそれで助けになりますし愛に目覚める土壌にもなりますけど、それよりも重要なのは支配者層が救世主によって救われることなわけです。

実際、支配者層も自分の苦しみを理解していて、誰かに救ってもらいたいと思っています。そのメシアになれるライトワーカーが求められています。支配者にとってのメシアの出現が期待されているわけです。


■支配者たちは救世主(メシア)を待ち望んでいる

支配者たちは、自分達を救ってくれる救世主(メシア)が出て、文字通り本当に自分達を救ってくれるのをずっと待ち望んでいます。

支配しているとはいえ、実際には苦しんでいます。真っ黒なオーラで葛藤が絶えずあって、ちょっとしたことがあれば前時代の専制君主のように周囲の人を簡単に私刑にしたりしています。それが許されるくらいの絶対的な権力があって、司法や国もアンタッチャブルになっています。それでも、それらの人たちは苦しんでいて、表面上はそれほど見せないですけど、救世主(メシア)を待ち望んでいるわけです。

いくら絶対的な権力と国家予算の何十年あるいは何百年にも匹敵する財産を持っていたとしても苦しみというものは消えていないのです。そして、その苦しみを救ってくれる救世主(メシア)を待っています。

実際のところ、そのような支配者たちになまじ中途半端な期待を抱かせるのは危険で、自分にとっての本当のメシアではないと分かったあるいはそう判断したのならば近づいたライトワーカーたちはすぐに消されるか拷問あるいは良くて道具として能力を使われるだけの状態にされてしまいます。ですからライトワーカーにとっては支配者層に近づくのはリスクがあるのですけど、元々、地球を救うとか大層なことを言って転生してきたライトワーカーたちの多くがその使命も忘れて欲望にふけったり既存の社会のシステムの中に組み込まれてちょっとした貢献をするだけでいい気になっていたり会社を大きくして満足していたりして、本来の使命を忘れていることがかなり多いように思います。ですから、そんな現世利益に自分の時間を費やしてシステムを強化する方向に否応無しに協力させられるくらいなら、本来の目的に即して、殺されても構わないという覚悟で支配者たちの懐に飛び込めばいいのです。そんな気概のあるライトワーカーはほとんどいなくて、せいぜい、周囲で宗教を立ち上げたり遠吠えして支配者を非難するか、あるいは体制側に回って御用宗教になるかで、支配者を救おうというライトワーカーが少なすぎるのです。

結局、このような、覚悟の少ないライトワーカーたちが今までも他のタイムラインで遠くで西欧の国家を遠くから非難し続けて格差を拡大し、そんな時に突然核戦争が起こって地球が破壊されることを手をこまねいて見ているしかなかったわけです。

他のタイムラインがことごとく破壊されているのは、ライトワーカーたちの覚悟が足りないせいだ、と言うこともできます。まあ、あまりこういうことは言いたくないのですけど、実際、そうなわけです。

今回のタイムラインがどうなるのかはまだこれからではありますけど、ライトワーカーたちが大挙して支配者を救おうと行動するならまだ地球が破壊されずに継続する可能性は出てきますね。ですけど、他のタイムラインと同じように遠くから眺めて非難している状況が続くのだとすれば他のタイムラインと同様に地球が破壊されるのも時間の問題と言えます。

地球が救われるかどうかは、人々が目覚めるかどうかというのも確かに大切ではありますけど、それ以上に、支配者層が救われるかどうかに大きく関わっているわけです。


■民主主義で国民主権の時代になったなんてのは嘘

今は民主主義で国民主権とか言われていて国民が政治を関している風に思っていたりしますけど、実際は、昔も今も支配者が何を考えているのかを一般大衆が知ることはないのです。

制度としては国民が主権ということに一応はなっていますけど、実際は、国民主権で言っている国民とは一般庶民という意味ではなくて一部の国民が国王に代わって国を支配する、ということなわけですけど、この、国を支配している一部の国民というのはそのまま支配者のこともあれば代理人とかの場合もあってそれぞれですけど、どちらにせよ、一般庶民とこれら支配者あるいは代理人とはあまり関係がないのです。

これは制度的にもそうですし、実際、思想としてもそうなのです。ですから、一般庶民に主権があって国を間接的に治めているなんてのはかなり嘘なわけで、それでも時折、一応は制度としてありますから何も事情を知らない政治家がポッと選出されたりもしますけど、それは割と例外で、基本は一部の国民が国を治めているのが今の世の中なわけです。

ここで、基本形としてあるのは、昔ながらの国王は割と国民を思っているのに対し、新らしい制度の元で生まれた一部の国民による統治というのは基本的に欲望に基づく統治であるという点です。

昔ながらの統治では国王が国民を思いながら統治して国民はその国王の元での自由がありました。
今は、一部の国民が欲望の為に国民から搾取して政治を行っています。どちらが庶民にとって幸せだと思いますか。

もちろん、国王にもいろいろあって欲望が強い国王とか居ましたけど、今の政治家のようにほとんど8割とか9割が欲望のために働いている状況ではなくて、国王の場合は8割から9割は国民のためを思っていて残りの2割とかはそうでなかったりしますけどそこは人間ですからそのくらいは許容すべきくらいのものなのです。国王が国王らしくちょっと贅沢するくらい、可愛いものではないですか。

庶民は、一部の欲望まみれの、しかしながら演技の上手い一部の国民に踊らされる形で革命を起こして国王を追い出し、欲望まみれの強欲な一部の国民に国を与えることで庶民が自分の手で自分をより悪い状況に追い込んだのだと言えます。

統治というのは国民を思うことが必要で、それには長い歴史の積み重ねや代々の言い伝えも時として重要になりますけど、ぽっと欲望のままに政治家になったり首相になった人が何もできないばかりか、そもそも国民のことを対して思っていない、というのはどうしようもない状況であります。

そのくらいなら、きちんとした国王がいてくれた方が何倍も良いわけです。


■支配者層が街に出て交流することはそれほどなかった

グループソウルの記憶を辿るとわかることは、やはり昔も今も支配者がこの世界を治めていて、何ら変わっていません。変わったのは、昔は表に支配者が出てきていたので誰が支配しているのかわかりやすかったのですけど、今は出てこないので実際は誰が支配しているのかよくわからなくなったことです。とは言いましても、状況が少し違うだけで、昔とそう変わらないとも言えます。

世間では、昔よりも随分と良い世界になった、みたいに言われていますけど、昔だってそれなりに良い世界だったように思います。支配者がいて国民がその籠の中で暮らしているという点においては何ら変わらないわけです。今は知恵がついて情報が行き交っていますから「見えない支配者に支配されている」とか騒ぐ人がいたり陰謀論を唱える人がいますけど、そんな支配は昔からあったのであって、昔も今も支配者たちは自分達で全てを決めていますから、一体何が起きているのか一般大衆が知る由もないわけです。

民主主義で国民が主権の筈なのに何かよくわからない影の支配者がいるように思えたりして、一見すると、どうなっているのかよくわからないという意味では昔より酷い世の中になっているように見えたりします。ですけど、それは、もともと国民主権なんて最初から存在していないのにも関わらず、変に期待を持たせて主権があるかのように勘違いさせてしまったが故にそのように見えたり思えてしまうわけで、最初から何も国民には知らされていなくて、国民主権かのように思わされていただけでしたので、ですから、陰謀論とか影の支配者が裏にいるかのように思えるかもしれませんけど、そんな勘ぐりをするだけ無駄で、最初から国民は支配者のことを知る由もなくて、国民主権になる以前からずっと今まで全く変わらず国民は支配者に支配されてきたわけです。

一般大衆が支配者層を理解できないというお話は昔からのことで、それでも、支配者がたまに街に出て市民と交流するというのは昔も今も変わらずあって、今の方が昔より街に自由に出やすいという意味では変わってきてはいるのですけど、昔も街に出ようと思えば出られましたし、例えばローマ時代などは支配者と国民の距離が近い時もあって、支配者であっても町の酒場や食堂で食事をしていたりしました。その時に普通に市民と交流もしましたし、生活の大部分においては別の区画で暮らしているとはいえ、街に出て市民と接しようと思えばいくらでも接することができる状況にあったわけです。

昔も今も、支配者層の側から時々街に出て市民と交流をする、という形になっていて、逆ではなかったように思います。市民が自分の意思で支配者層と会うことはできないわけです。今も昔も。

今でも支配者層が街に出ることがもちろんあるのでその点に関しては同じと言うことができて、支配者層が市民と交流することは今でもあるわけです。ですけど、ローマ時代は支配者が誰かというのがはっきりとわかった上で街に出ていたのに対し、今は、なかなかわからない、という違いはあります。グループソウルの記憶を辿るとローマ皇帝でメンヘラだった時に街に出て交流もしていたように思います。

お殿様がいた江戸時代などを振り返ってみると、お殿様は屋敷やお城にずっと生活していて、武士たちや町民とは少し離れたところで生活していました。町の住民と交流することも多少はありましたけど基本は離れた生活をしているわけです。これもグループソウルの記憶を辿ると、水戸黄門みたいにお忍びで街に出ることは実際には少なかったものの、時々、ちょっと街に出たりする時はありました。ですけど、お殿様の場合は少し距離のある感じでしたかね。


■支配者がいるからこそこの世界が劇的に良くなる可能性がある

今も、支配者層(政治家ではなくて、本当の支配者層)は国民とは少し離れたところで生活をしていて、それでも国民と接することはありますので、生活の環境は昔も今も、時代が変わっても、国が変わっても、意外にそうは変わらないと言えると思います。

今の支配者層も一般庶民とはそこまで関わり合わずに生きており、一般庶民との交流は限定的で、選択的に行なっています。昔も今もそのような選択的な交流が主流であって、支配者はずっと支配者であり続けてきました。

今の国民がいくら国民主権だとか勘違いをしようとも、そんなことに関わらず影響されずに支配者はずっとあり続けてきました。

民主主義というのも罪づくりで、もともと存在していなくて今も存在していない国民主権などというお話をでっち上げてその気にさせているだけのお話で、昔も今も、国民は支配者層にそこまで相手にされていないわけです。

もちろん、相手にされてはいない、とは言っていても、支配者層にはそれなりの考慮というものがあって、国民が飢えさせないようにするだとか、それなりの満足した食生活を送ることができるよう考慮するだとか、それなりのに気を使うことがありました。ですけど、庶民というものは日々の暮らしが第一であって支配者層とは関心の領域が異なりますので、基本的には支配者層は国民をそこまで相手にすることはなかったように思います。

これは一般大衆からすると落胆する事実で、本来持っていたと思っていた主権が実は存在しなかったのだという現実を突きつけられた時に絶望してしまうかもしれませんけど、この事実は、実は世界の平和及び未来に対しては明るい希望なわけです。

支配者層が本当に存在しなくて国民主権だった場合、極端なことを言えばマスコミが煽ったり宣伝するだけで政治が動いて国の行く末が決まってしまい、亡国への道を歩んでしまいます。

ですけど、支配者層がいるのであれば、その支配者層が理解したり方針を変えることで良くなる余地がいくらでもあるのです。

世界平和だとか地球の破滅を防ぐだとかいうお話は、あたかも国民主権で国民の一人一人がやる必要がある、みたいな考え方を刷り込まれていますけど、実際は、それは支配者層がほとんど握っているわけです。

そんな国民主権などというよくわかない概念を持ち出すより、人生でやりたいことや追求したいことを身近な範囲で実現してゆく方がよっぽど充実していていいと思います。

これは一見すると酷い状況のように思えますけど実際は昔も今も変わっていませんので、誰かが何を思うに関係なく、昔も今も変わらない状況であると言えます。

何回も転生してそれなりに経験を積んだならともかく、最初は、あまり勘違いせずに普通に生きて寿命を全うするくらいでいいと思います。国民主権があるなんて勘違いをせずに、昔も今も支配者の采配で生かされていると思っておいた方がいいわけです。

昔も今も、国民は支配者からほとんど相手にされていなくて、放っておかれていました。今の民主主義ですと勘違いした人が立候補して変な政策をしてしまう危険性がありますので一応はきちんと見ておいて選挙には行って変な政治家を排除することは必要ですけど、あまり大きなお話で政治家をどうこう選んでもあまり意味がないように思います。もちろん例外はいて、国民主権ということに一応はなっていますからやろうと思えばできるわけですけど、支配者層の力が強すぎて、あまり意味を持っていないわけです。

この状況は、一般大衆から見ると酷い状況に見えますけど、世界の平和を実現するのに過半数の意見を合わせる必要がなくて一部の支配者層の人たちだけが決めれば良いというのは実は良い状況なわけです。


■スピリチュアルで支配者がいなくなる、という嘘と罠

スピリチュアルにおいても、少し前のニューエイジの風潮において「これからは支配者などは存在しなくて個々が自由に生きる時代だ」とか散々宣伝されましたけど、これは、実のところ新興の支配者層が「国民主権」とか「支配者のいない世界」という宣伝をして既存の勢力の力を削ぎたかった時にたまたまスピリチュアルが流行ってきていて、うまく使って宣伝された、という面が強いように思います。結局は政治宣伝に使われて踊らされただけだったわけです。その一部には真実が少しはあるのが常ですけど、真実の割合の方が少ないわけです。やっている側も聞いている側も、一見よくわかるようでいて実のところよくわからないお話だったように思います。

宣伝する側もあまりよくわかっていなくて本来のスピリチュアルとは違ったニュアンスで宣伝されて、その結果、あたかも自由にエゴの赴くまま生きていれば良くなるのだという勘違いスピリチュアルが助長されてしまったように思います。新興の支配者層が宣伝のためにスピリチュアルを使ったために本来のスピリチュアルの意味が間違って解釈され、良くわからないものになってしまったわけです。新興の支配者層からすれば既存の盤石な支配者の力が削げれば何でも良いわけで、政治宣伝をそれとわからないようにしていたらスピリチュアルの側が勝手に変わった方向で解釈してしまった、ということだと思います。

それは人の心を混乱させ、更には世の中を混乱させてスピリチュアルとは逆の方向に導く、スピリチュアルを潰すための罠という意味も多少は含まれていたかと思いますが、そこまで意図的に罠にかけたわけでもなく、単にこの辺りのことが良くわかっていないだけなのではないか、と思えるのです。

スピリチュアルの目的地は自由と言えばそうですけどそれはエゴとしての個人的な行動の自由ではなくて統合と場所的意識・集合意識による自由ですので、スピリチュアルで支配者のいない世界とか言って支配者を否定するのは後者の集合意識のことではなくてエゴが自由に生きますということですのでエゴの強化でしかないわけです。エゴが拡大して自由になるというのはスピリチュアルのお話ではないわけです。スピリチュアルの自由というのはエゴが小さくなって集合意識になることでエゴが消え去るということなのに、あたかもエゴを自由にさせれば良いかのように宣伝し、本来のスピリチュアルとは全く逆のことがあたかもスピリチュアルの道かのように宣伝されて、その結果、スピリチュアルが変な目で見られてムーブメントが潰されてしまっているわけです。

これはちょっと勉強すればすぐにわかる簡単なことではあるのですけど、本当のスピリチュアルの主張と勘違いのエゴの自由とがそれぞれ宣伝されて、お互いにお互いのことを「これが正しい、これは違う」という言い合いに発展してしまい、両方ともが潰れてしまったという歴史があったように思います。この辺りのお話には地雷が埋まっていますから、自由とかを主張するスピリチュアルにはあまり関わらないのが良いかと思います。

実のところ、この種のお話のように、支配者層が自分の都合の良いように宣伝するために流行の言葉を使うというのはよくあることで、スピリチュアルにしても本物のスピリチュアルは存在したわけですけど、本当は違うのだけれども世の中ではいいように宣伝されている、というような落とし穴がこの世界には多すぎて、のほほんと人生を生きていると簡単に人生ゲームに詰まってしまいます。何度も落とし穴に落ちたり実際に誰かが倒れることでその屍の上に誰かが歩む、というような、比喩的に言えばこの世界は「クソゲー」「死にゲー」状態の現実なわけです。こんな難しい現実の人生ゲームは普通に行き当たりばったりに生きたらすぐにゲームオーバーなわけで、無限にハメられていて抜け出せない方があまりにも多すぎます。

スピリチュアルをするにも落とし穴が多すぎて、勘違いしてしまう罠が色々とあったりするわけです。なかなか難易度が高いですね。

世間で言われているような「自由」みたいなお話を真に受けて自分が自由だとか思ってしまうと実は全然自由ではなくて勘違いしてしまってあっという間にゲームオーバーで誰かの手のひらで踊らされるだけになったり、そんなお話が多すぎるわけです。


■スピリチュアル・レベルの高い指導者を人々は望んでいる

支配者がいなくなるわけがなくて、支配者がいなくなるとすればそれは住民が「見捨てられた」だけの状態になるわけで、それは支配者がいるよりもっと酷い混沌とした状態になるだけです。そんなカオスの世界、力が正義の世界、北斗の拳の世界にしたいのですかね? 支配者がいなくなってもそんな混沌な状態にはならないという人もいますけど、それは、申し訳ないですけど、騙されてしまっているわけです。スピリチュアルが発達した世界にもしっかりと指導者はいて、ただ、指導者の精神的レベル(スピリチュアルのレベル)が高いかどうかという違いはあります。

スピリチュアルのレベルの高い指導者を皆は求めているのであって、その指導者を支配者と呼ぶかどうかは、見方次第なわけです。支配者がいなくなることはなくて、ただ、スピリチュアルのレベルの違いがあるだけです。昔ながらの支配者層は庶民が思う以上に皆のことを気にかけています。

実のところ、庶民からすると指導者が欲望だらけに見えたりしますけど、指導者の姿を実際に見ると、庶民の平均以上のスピリチュアルを基本にして、時折庶民からの転生を受け入れることで庶民を理解しようとしています。ですので、指導者と言っても魂の経歴によって色々で、その目的に応じて、スピリチュアルのレベルは人それぞれだったりします。ですけど、平均的には庶民よりも高いのです。神様の転生である指導者もいらっしゃいますし、その一方で、一般庶民と変わらないような人もいたりします。王族にしても、割と普通です。生活は全然違いますけど、スピリチュアルのレベルで言うと、人それぞれです。ですけど、概して、スピリチュアルのレベルは周囲の影響により高められるように思います。

指導者や国王と言ってもそれぞれなのに、一部の一般人は指導者を見ると誰それ構わず「欲望の権化」みたいに勘違いして見たりして、それはおそらく、そうすることで地位を追い落として自分がそのポジションに成り代わりたい人の画策だったりするわけですけど、それに加えて、庶民の欲望による不満や吐口を探した時にその矛先が指導者に向いてしまうのでしょうね。その力を利用して今の支配者を倒して自分が支配者になろうという、更に状況を悪くするために今の指導者を悪者に仕立て上げよう、という策略がそこらに見え隠れするわけです。

フランス革命にしても、国王を倒して良い世の中になるかと思えば何も変わらなかった、なんて、笑い話にもならないシュールな話が世界には溢れています。ただ単に、政治がちょっと苦手で周りの人に従っていただけな国民思いの王をギロチンで殺してしまっただけの結果にしかなっていなくて、なかなか笑えない状況になっています。人々は、支配者が搾取しているというストーリーにコロっと騙されるのですよね。このあたりも難易度が高すぎる人生ゲームになっていますので、あまり世間で言われている「それっぽいお話」を本気にしない方がいいと思います。それっぽいお話は、とても頭の良い人が権力争奪のために考えた扇動ストーリーであることが多々あるわけです。

支配者層のことを一般庶民がいくら気にしたところで、庶民は知る由がないのです。

結局、支配者層と一般庶民とは、それほど関係がないのです。支配者層は昔から少し離れた場所で暮らしてきましたし、これからもそうです。そんなことを気にするよりも、自分がしたいことをするのがいいと思います。スピリチュアルを成長させたいのならば修行すれば良いですし、仕事に打ち込みたいならそれをすればいいのです。導きというのはその範囲においてなされるわけで、天に唾を吐くようなことをしてもあまり意味がないのです。

望むとすれば、スピリチュアルなレベルが高い指導者を望むこと。そのくらいだと思います。そうなれば、由緒ある国王というのはいい選択肢ではないでしょうか。

実のところ、共栄圏の政治形態は一応は大統領制でしたけど大統領に立候補できるのは藩主あるいはその地方の首相相当しか共栄圏の大統領に立候補できませんでしたので、由緒ある家柄の人が大統領になるシステムでした。その政治システムを次に紹介したいと思います。


■共栄圏での大統領システム

そのタイムラインの大統領システムは今のアメリカなどの大統領システムとはかなり異なっていました。

まず、立候補できるのは元々は藩主のみでした。その後、太平洋沿岸の国々が共栄圏に参加するようになってからはその国の元々の代表、元々国王だったり元々元首のような立場だった人が立候補できるようになりました。

その時、今の政治システムと大きく変わっているのは、まず最初に「約束」の書類を作って、その書類に対して皆が投票し、その実行者としての大統領が選出されるという位置付けになっていました。

今のこのタイムラインの政治システムは皆がご存知の通りそうではなく、まず最初に政策(マニフェスト)が作られてそれを元に投票しますけど、そこで投票するのは「人」に対してであって、政策を実行するかどうかは信頼するしかなくて、実際に政策を実行しようが、政策に書かれていないことを実行しようが、選出されて権限を得た後は好きにできるというのが今のシステムです。

共栄圏の大統領システムはそうではなくて、あくまでも「約束」をベースにしていました。投票の前に「誰それは、これこれ、こういうことをします」という誓約書を提出させ、それを全住民が確認し、その「約束」に対して投票をしました。その上で、その約束をした人に対して「大統領」という地位を一定期間(4年とか)与え、「約束」の範囲に限定した権限を与えたのです。

それに加えて、外交の窓口になったり戦争を仕掛けられたとか自然災害などの緊急時には率先して指揮を取ることが大統領に求められました。

ですので、大統領としての役割はそこまで大変でないことが多く、名誉職の意味合いが強く出ていました。

共栄圏での大統領は自分の出身の藩あるいは一部地域の統治者の役割を兼ねていましたので大統領の業務はそれほど負担にならない範囲で遂行されていたように思います。

これは、元々は織田信長が自分の後継をどうしようかと考えた時に、太平洋沿岸にまで広がってしまった共栄圏を維持するには日本という一地域から全土を支配するのは難しいと考え、4年で限定的な権限を持たせる制度を考え、それがうまく稼働したのでした。

大統領の権限は制限されていて、最初こそあまり理解してない藩主が自分の好きにしようとしましたがそこは織田信長が当初のルールを徹底させ、その後は理解も浸透してうまく回ったように思います。

聖書では世界創造の最初に光があった、とか、あるいは、言葉があった、などと言われています。人間の創造の前に光あるいは言葉があるわけです。この言葉とは普通の話し言葉のことではなくオーム(あるいはアーメン)のような普遍的な言葉=光としての神の創造があった、ということですけど、そのように、人間の営みや創造に先立って光=言葉の創造があるわけです。インドではオームという言葉が世界の創造とみなされていますが、オームというのはブラフマンのことでサットチットアーナンダですから光でもあるわけで、意味するところはかなり似ています。政治システムもそのように、人間に先立って光=言葉があるのが健全なわけです。今も基本的にはそうなのでしょうけど、仕組み、制度として権限に制限が明確にある点が今と異なります。

それは言い換えれば「約束」に基づいた制約と契約に基づいて大統領に権限が与えられたわけです。

最初は大統領は日本の藩主からのみ選んでおりましたが、織田信長の死後、各地方の統治が安定してきた頃から共栄圏の地方の党首相当も大統領に立候補できるようになりました。

織田信長の死後は、特にアメリカ西海岸に移住がかなり急速に進んだこととアメリカンインディアンの人口も増えたことから、日本側の意識とアメリカ側の意識とで乖離が出るようになっておりました。日本からアメリカ西海岸の状況がよくわからず、それでいて日本の大統領が作る政策にアメリカ側の不満が高まっていました。アメリカ側は「そんなことする必要ない」と言って日本列島側の政策を突っぱねたり「日本は状況がよく分かっていない」と言って、「いっそのこと、独立しようか」とも考えていたのですけど、アメリカ側がそうして離脱の動きを見せると日本側は焦り出して、考え方を改め、「分かった。これだけ共栄圏が広がったのだから、地方も含めて、大統領に立候補できるようにしよう」と決め、それならば分かった、ということでアメリカ側は納得したのでした。元々、信長が生前に「将来は共栄圏の全土から立候補できるようにするように」と言っておりましたので、その意思を共有することで割とスムーズに問題は収束に向かいました。

そのために、まず投票の人数を確定させなければならないということでアメリカ移住の人とアメリカンインディアンの住民調査がなされました。そこではもちろん一人一票なわけですけど意外にアメリカの住民が多くて、それでも日本側は気にせず大統領選をしたのですが、アメリカ西海岸から大統領に初めて立候補した士族がいきなり勝利し、アメリカから出た初めての大統領になりました。それは日本列島からしたらかなりショッキングな出来事で、地政的な大変動が起きた瞬間でもありました。それ以降、日本列島から大統領が選出されることは少なくなり、共栄圏での日本列島の重みはこの大統領選以降、急に下がり、その状況は現代にまで継続します。

日本列島はまるで、かつて栄えたものの忘れ去られた土地のようになりました。武家の屋敷はそのまま温存され、綺麗な街並みはあるのですけど、最先端はアメリカ西海岸が舞台になりました。

一方、大統領システムはうまく回り、アメリカや、あるいは、オセアニアの小さな国が選出されることで「資源を取りすぎない仕組み」や「分かち合いシステム」などが強化され、自由と愛、安全、そして分かち合いとが共存する、かなり理想的な共栄圏が生まれたのでした。


■共栄圏での住民代表システム

そのタイムラインにおいて、投票システムが出来上がったのは大統領システムが最初ではありませんでした。大統領システムの前に、大統領システムとは別の仕組みとして、住民の自治を目的とした住民代表システムおよびそのための住民投票システムが作られました。投票システムというのものそれ自体が初めてでしたし、立候補して演説をするというのも初めてでしたから、実験的に住民投票システムが作られ、近場のいくつかの藩、3つほどだったかと思いますが、そこで仕組みの検証が行われました。

農民のことは農民で決める、という趣旨の元、住民代表を決めるべく演説をして住民が投票の上、住民代表を決めるという仕組みが作られたのです。その住民代表はお殿さまに「お願い」できるというシステムで、そのお願いは藩が責任を持って検討し、必要ならば適用させるという仕組みになっていました。

まずは織田信長のお膝元、安土城の前の広場で住民に演説させ「私が代表になったらこれをする、これを改善する、橋を作る、水路を作る」みたいなことを発表させました。この、代表が藩に「お願い」出来るというのは当時としては画期的で、最初は数藩で行わましたがその反響は大きく、「私のところでもやりたい!」という意見が殺到し、日本の全土で大騒ぎになりました。織田信長は「待て待て。慌てるな。まずは3つの藩で実験し、仕組みに問題がないか洗い出すから、それをまず見ておれ」と言って3年ほどを準備期間とし、その後は他の藩にまで広げたのでした。

これは、藩に対する「お願い」というシステムですので、藩によっては「よく分かった」と言ってやってくれるところもあれば、藩主によっては「農民なことなど聞けるか」と言ってつっぱねたりもしましたが、藩主が動かない場合は住民代表が織田信長のところに来て「お願い」することができるという二段構えになっておりましたので、住民代表はまず藩の中で自分たちでどうにかできないか試行錯誤をして、どうしてもダメなら織田信長にお願いをする、ということで、それはうまく回っておりました。

最初は堅固で突っぱねていた藩主に対して、信長は状況を把握してからその願いが妥当なものなのか検証し、妥当だとすれば藩主に命令をしてうごかしたのでした。住民代表が直接言っても動こうとしない藩主に苛立っていた住民たちが信長様経由で要望を伝えたら藩主がコロッと折れて動きだしたのですから住民は歓喜喝采、大騒ぎで喜んで、一方、藩主の方は「ガクッ」ときて「仕方がない・・・。やるか・・」みたいな時もありました。

農民の不満はほぼこれで解消され、藩主は人によっては当初こそ渋々と話を聞いていたものの、いざとなれば織田信長経由で指示が来ると分かってからは積極的に住民代表の意見を聞くようになりました。最初こそそのように聞き分けの悪い藩主がいましたが、仕組みが動き出してからは藩の方も積極的に住民の話を聞くようになり、住民自治のシステムはうまく回っていったように思います。

その後、前に書きましたように大統領システムが作られるわけですけど、住民による投票は2つの仕組みで成り立っていたと言えます。

投票
・住民代表を決めるための投票
・大統領を決めるための投票

立候補
・住民代表は住民なら誰でも立候補できる
・大統領に立候補できるのは藩主あるいは地方の統治者(その地方の元首相当)

約束
・住民代表(立候補者)は、立候補の時に演説で自分が行いたいことを表明する
・大統領(立候補者)は、自分が行う政策を書類にして提出し、そこに書かれた範囲でのみ権限を一時的に譲渡される。加えて、外交時の対応、災害や戦争など突発的な出来事に対して対処する責任を持つ。

住民投票システムは織田信長が基礎を作り、その後の世代で共栄圏の全土に広がり、制度が安定しました。

これは、名目上は藩主が全権を握っているという形にはなっているものの実質上は住民にかなりの権限がある形になっており、住民の自治を基本として藩主がその意向を汲んで政治を行う、という形態になっておりました。

これは、ヨーロッパにおいて絶対王政の時代においても似たような状況があり、名目上は王に全権があるということにはなってはいるものの実際は住民や各地の領主の裁量にかなり委ねられている、ということと似ている面もあったかと思います。

このように、名誉と歴史を重んじる人が上に立って、名目上の権限は一応あるものの実質的な権限がそこまではない、という形が健全であって、現在のように、本当に大統領や首相に権限が集中してしまう形は不健康であるように思います。特に、ポッと出の政治家に全権を与えてしまうことの危うさを世界中で見ることができます。それよりは、歴史を重んじて、名誉を知り、住民を思いやる藩主や王あるいは大統領に守られている世界の方がよほど健全であると言えます。

共栄圏では、大統領選挙で「約束」に対して投票はしますけど、それによって決まった大統領がいたからと言って各藩やそれぞれの地域が必ず命令に従わなくてはならないわけではなくて、大統領はあくまでも旗振り役であって、命令に従うかどうかは各人及びそれぞれの藩や地域の執政官の判断に委ねられていました。大統領としての権限中枢は議会にありましたけど、大統領としての旗振り役とは別に、議会の意見もそれぞれあって、必ずしも大統領が全権を持っていなかったのです。その点、今のアメリカの大統領も必ずしも全権を持っていなくて議会を通さなくてはならないわけですけど、それでも今のアメリカ大統領は大統領令があって権限が一定ありますが、共栄圏での大統領の権限はそれよりも遥かに制限されていて、投票で「約束」したこと以外はほとんどできないことになっておりました。文字通り、かなり名誉職の位置付けが強かったわけです。

一方、住民代表の方はそこまで縛りはなく、住民の要望を伝えて藩に伝える、ということを自由に行っておりました。


■昔ながらの支配者層は、言うほど悪い人たちではない

昔ながらの支配者層は皆が思っているよりも良い人たちです。ですけど、今は、新興の支配者の割合がかなり多いタイムラインになってしまっています。共栄圏の支配者層は伝統的な家柄の人が歴史と名誉を重んじて住民のことを思って統治しておりましたが、今のタイムラインは新興の支配者が割と好き勝手にしている状況であります。

今回のタイムラインは、神様にまで繋がる昔ながらの古典的な支配者層の支配する地域が割合少なくて、新興あるいは欲望にまみれた庶民の支配者層が多いタイムラインになっています。そのように、欲望まみれの人たちがそれなりに満足しているから地球が破壊されずにいるという面もあるのかなと判断していますが、実はそうではなくて、たまたまうまく行っているだけ、という可能性もあるにはあります。この辺り、タイムラインには不確定の要素が多くて、同じ条件でもやり直したら違った結果になったりしますので、原因の特定というのはなかなか難しいのです。ですけど、基本的には、欲望まみれの支配者層が多くて満足しているからこそ地球が存続している、という状況かなと思います。

ですけど、概して、特に歴史のある支配者層は人々のことを考えていて、地球の存続に考慮しているわけです。

現在のタイムラインにおいて昔ながらの支配者層は地政学的に実質的な権力はそこまで持っていなくても、昔ながらの支配者層の家系は存在していて、神様とも繋がっていて、神様の意志を反映すべく動いていたりします。それはそれで、単に自分たちの欲望のために動く新興の支配者とは違った人たちが世の中のために動いているわけです。

新興の支配者は欲望が強いために地球を核爆弾で吹き飛ばしたりしてしまったりしますが、昔ながらの支配者層はそういうことはしません。新興の支配者層は神の健在を感じられていませんから肉体の命が最重要で自分を守ることを第一に考えます。一方、昔ながらの支配者層は神の臨在を感じていますから、魂の永遠を知っているのです。

ですから、新興の支配者と昔ながらの支配者の間で人の命に対して見解の相違が現れてくるのも当然のことで、新興の支配者は割と今の一般市民と同じような命の認識を持っていますけど、昔ながらの支配者は人の命よりも名誉や振る舞い、正義を重んじるのです。肉体の命を最優先にする新興の支配者が自分たちをも含めて地球を吹き飛ばしてしまうと言うのは皮肉なものです。昔ながらの支配者は命よりも重んじるものがあるのはそうなのですけど、かと言って、命を粗末にせずに、相応に命を大切にするのです。命と名誉と、それに、調和を重んじます。

そして、最近は地球の人口増加が問題になっていますが、昔ながらの支配者層は緩やかな人口抑制を考えています。一般庶民が考えるような虐殺ではなくて、地球の存続のための人口抑制だったりするわけです。それは緩やかに、なるべく苦しみの少ない方向で行われます。それを嘆き悲しむ必要はなくて、支配者層は地球の存続と全体の幸せのために考慮しています。

このあたり、とてもわかりにくいですけど、一般庶民からすると欲望まみれの人が人口削減を目指しているかのように見えてしまうかもしれませんけど、欲望まみれの人は人口削減なんて回りくどいことを考えたりはせずに素直に欲望のままに人を支配するという方向に向きます。ですから、人口削減で地球を存続させようと考えている支配者層は欲望まみれの方ではなくて、古来の、神様に近くて徳の高い指導者たちの方になります。一般庶民からすると理解がしにくいかもしれませんけど、人は、命に重きを置きすぎているのですよね。人口がこのまま増えれば資源が足りなくなって戦争になりますから、あらかじめ平和な手段で、たとえばコロちゃんワクワクで皆が喜んで体を弱らせて寿命を2割減とかにすれば苦しまずに人口が抑制できるわけです。なかなか考慮の深い、愛に満ちた方法だとは思いませんか。命の価値という面においては一般庶民と違った価値観を持っているわけです。

そのようなお話は割と例外で、基本的には昔ながらの支配者層は人々の健康と長寿を願っています。そこは誤解してほしくはないと思います。今はかなり緊急時で、戦争で大きく人口を減らしたり大陸が吹き飛んだり地球が割れて人類滅亡するよりは愛のある人口抑制と地球の継続ができないか試行錯誤している状況であると言えます。

一方、新興の支配者の中には愛を知らなくて人の命を何とも思っていない人もいる、というのは、それはそうだと思います。ですけど、支配者と言っても色々なのです。

今のこのライムライン(世界線)だけを見ると混乱しているかのように見えますけど、実のところ、地球が存続しているだけ幾分かマシであることが大前提にあって、かと言ってこのままでは混乱してしまいますのでどうにかできないか試行錯誤している状況であります。

支配者層がどうして核戦争をして大陸や地球を吹き飛ばしてしまうかというと、支配者層と言っても多様で、色々だからです。新興の支配者が勝手に動くことも多々ありますけど、多少はその背後で昔ながらの支配者が神様と共に手引きしている場合もあります。よく分かっていない人が政治家になったり、庶民がたまたま支配者層になった場合などは、あまり考えずに動いてしまうことがよくあります。その結果、核戦争を始めて大陸や地球を吹き飛ばしてしまう状況が今までのタイムラインでは避けられなかったわけです。

新興の支配者のように見えても昔ながらの支配者が多少は影響力を及ぼしている場合もあるわけですが、今の実際の権限を持っている政治家や首相の全てを地球の昔ながらの支配者が抑えているわけでもなく、勝手に動いている人たちや反発している人たちも大勢いるわけです。

元々、共栄圏と言う、太平洋沿岸の地域にとっては理想的な世界線(タイムライン)が存在していて、それが継続不可能になったがためにやり直して、何とか継続できないか試行錯誤しているという状況を理解して頂ければと思います。


■共栄圏における日本列島

そのタイムラインにおいて、上に書きましたように立候補者の範囲が広がった最初の大統領選で日本列島の立候補者たちがいきなりアメリカの立候補者に負け、アメリカおよび共栄圏の各地から大統領が選出されるようになって以降、日本列島の位置付けが相対的に下がっていきました。日本列島は日本民族が発祥した土地ということで尊重はされ続けますが、人は豊かなアメリカ西海岸にこぞって移住し、日本列島には空き家が多くなりました。

元々、日本人はアメリカ西海岸をそれほど豊かな場所だとは考えておりませんでした。しかし、何度かの飢饉が日本列島に訪れた時、アメリカで食べきれずに古米となっている在庫を大量に日本に運び入れることで日本列島の飢饉を救ったことが何度かあって、それ以降、アメリカの豊かさが日本列島に知られることになり、大量に移民するということがその後、100年ほどに渡って続きました。

元々アメリカ西海岸で在庫になっていて困っていた3年前くらいまでの古米があったのですが、現地では「これ、どうしようか。捨てようか。勿体無いな」と思っていたところ飢饉ということで送ろうとしたのですが、いざ見てみると虫がかかっていて、「こんな虫入りの米を送ったら怒られるかなぁ・・・」と思いつつも、大量の在庫としてはそれしかありませんでしたので、その虫付きの古米を「いいや、これを送ろう」とドキドキしながら送ったら意外にも全く日本列島の方は気にせず、むしろ大喜びで受け入れて、虫くらいは分けて取るから問題ない、ということで、アメリカ西海岸の送る側の心配は杞憂に終わったのでした。そんなことが、2回くらいあったでしょうか。

輸送する船と一緒に来た人が日本の宿でくつろいでいる時に「このお米運んできてくれてありがとう。あんたが運んでくれたのだから、これ、代金はいらないよ」と言われて出されたお米の中に米に紛れ込んでいた虫が1匹入っていたのですが、アメリカの住民は虫付きの米など食べたことがなくて新米ばかり食べておりましたので「ちょっとこれはなぁ」と思いつつも「日本列島の人はあまり状況をよく分かっていないなぁ・・・」ということで、アメリカが如何に豊かなのか説明してあげたりしました。

また、同時期にはアメリカ西海岸から旅行者が日本列島にやってくるようになっていたのですが、アメリカで生まれて育った人が日本の宿に泊まったところ、まるで牛小屋のような狭い小屋で、宿の方は「いい部屋を用意しておきましたよ」と言ったのにそんなに狭い小屋のようなところだったので、旅行者は「日本列島の人って、こんな狭い家に住んでいるの? 私の家で働いているインディアンの使用人でも、もっと広くていい部屋に住んでいるのに」と、驚いたりしていました。宿の人が「あんさん、どこから来たのかい。仕事は何をしているの」と聞くと、「アメリカ西海岸から来て、向こうで生まれ育ったけど、仕事は使用人が全部してくれるので、働いたことはないですよ。インディアンの人は働き者ですし、土地は広いし、作物は食べられないくらい沢山取れます。」と言うと宿の人やそれを聞いていた人は驚いて、アメリカ西海岸の豊かさをようやく認識したようでした。

そうして、飢饉を境に急にアメリカの豊かさが日本列島に知れ渡り、アメリカ西海岸への移住ブームが起きたのでした。100年もそれが続き、移住ブームが落ち着き、空き家もかなり増えたのですが、豊かな共栄圏を横から見ていた中国大陸の政権が「私の国(中国)も共栄圏に加えてくれないだろうか」と交渉してきました。

実のところ、織田信長の時代以降、基本的な政策として「中国大陸には手出ししない」「中国大陸と商売はするが、土地を購入するなど移住政策は取らない」という基本理念が守られてきました。それでも、豊かなアメリカ大陸やオセアニアの島国などいくらでも土地や資源はありましたから、日本からしてみたら中国大陸は面倒なだけな土地とみなされていて、しかも、大統領選によってアメリカなどから大統領が選出されることが多くなっておりましたから、日本の隣にある中国のことなんてほとんどの人が気にしていなかったのです。

そのような状況で、急に中国の方からそのようなことを言ってきましたので、皆はあまり気にせず「え? 中国? よくわからないけど、まあ、いいんじゃない?」みたいに気軽に考えたようです。当時、大統領は前に書きましたように制限された権限しか持っておりませんでしたから、国が共栄圏に加わるというような大きな決断は次の大統領選の政策に書く必要がありました。ですから、当時の政権は「国民に聞いてみないといけないので、次の大統領選挙で政策にして問うので、4年くらい待ってほしい」と言ったように思います。

それを了解した中国側はそれを待ち、選挙で「中国の共栄圏への参加に賛成する」と政策を掲げた立候補者が勝ちましたので、その時から、中国は、平和理に、しかも中国の側から望んで共栄圏に参加したのでした。

そのタイムラインではそのまま中国とは平和な状況が続き、争いもなく、今に至っています。

ただ、そのタイムラインで日本の神様が少し不満に思っているのが日本列島に住む人々の雰囲気で、当時は元々の日本人の多くがアメリカ西海岸に移住してしまった頃でしたので日本列島で過疎化が進んでおり、そんな時に中国が共栄圏に加わったことで中国出身の人が日本に大勢移住してしまったので街の雰囲気が少し変わってしまった、という点を神様が少し不満に思っていたようです。

その点、今のこのタイムラインは日本人の多くが日本列島に住んでおり、雰囲気も割と保たれておりますので、その点に関しては神様も一応はそれなりに満足しているようです。

人々の暮らしと恵みという点では共栄圏の方が遥かに良かったわけですけど、日本列島に住む人々の雰囲気だけを見ると今の方が良いと言えます。


■アメリカンインディアンの次期酋長を信長が呼んだお話

話は少し変わりまして、織田信長がアメリカンインディアンの次期酋長になる若者を1年間日本に呼んで交流したお話をしたいと思います。

そのタイムラインにおいてアメリカ西海岸への日本人の移住が進んでくると、アメリカンインディアンとの共生をどうするか、というお話が浮上してきました。最初のうちは人数も少なく、特に問題なく沿岸部に共生できていたわけですけど、今後、日本の一部として共栄圏に参加するかどうかでアメリカンインディアンの部族で選択があったわけです。

実のところ、織田信長がアメリカ西海岸に進出した時、同時期にローマ教皇とも手紙のやり取りがあって、その中で、うまいこと言いくるめて織田信長がアメリカ西海岸、特にグランドキャニオンより西側の統治をローマ教皇に認めさせた、ということがその少し前にありました。

しかし、ローマ教皇も事情がよくわかっていなくて、織田信長は手紙の中で、あたかもそれより以前からアメリカ西海岸は日本が管理しているかの如く書いて言いくるめたために、実際の状況を知ったローマ教皇が怒って「一体これはどういうことだ。お主たちはアメリカ西海岸に行ったばかりではないか」と、不仲の関係になってしまいます。ですけど、それ以前に、織田信長の頼みによりアメリカ東海岸および西洋諸国に対してローマ教皇の名前で「アメリカ西海岸は日本が統治しているのでその領域を侵害しないように」というようなおふれを出してもらっていたものですから各国には既に日本がアメリカ西海岸を管理しているという既成事実が広まっていました。

そのようなローマ教皇との不仲の状況の中、実際にアメリカ西海岸を確実に管理下に収めようと計画し、その一環でとあるアメリカンインディアン部族の若い次期酋長を日本に呼ぶことにしたのです。既にアメリカ東海岸は白人が管理しており、まだアパラチア山脈を超えて西海岸にそれほど白人が来ていない状況ではありましたが、これ以上、白人が侵略してこないよう、体制を盤石にしておく必要がありました。

そのためにはアメリカンインディアンの部族を説得して日本の共栄圏に平和理に加入してもらうのが良くて、アメリカに遠く離れていてはお互いの理解も進まないので、若い次期酋長に来てもらうことでその後の、他の部族に対する説明や説得もしやすいと考えたのです。


■アメリカンインディアンの次期酋長の若者に夜の接待をしたお話

そのタイムラインにおいて遥か海の彼方から呼んだ次期酋長の若者は、とてもガタイが良くて、まさに戦闘の民でした。最初はちょっと不機嫌で、なんで自分がこんな遠い海の向こう側に呼ばれたのか、あまりよくわかっていないようでした。

織田信長が話をして、これこれこういう理由で呼んで、君には日本とアメリカとの架け橋になってもらいたい、というようなことを説明したところ、最初は「ふっ」という感じで、「一体、こやつは、何を言っているのだ」と、あまりよくわかっていない風でした。

そんな日が少し続いて、まだその若者あまり馴染めないようでしたのと、おそらくはホームシックにかかっているのではないか、ということで、織田信長が気を使って、遠くの京都、祇園から女を呼んで夜の接待をしてあげることにしました。これは現代からすると理解されにくいことですけど、当時は、相手を歓迎するために夜の女を呼んであげることは普通に行われていました。

おそらくはこの次期酋長は童貞だったのかなと思われます。この祇園の女はとても魅力があったらしく、その若者は最初、「なんだ、この女は一体何なのだ?」と思ったらしいですが、色気を出して誘いつつ胸を掴ませたり胸を出したりして下半身を元気にさせてからイチモツを入れて接待してあげると、そういうことをするのは初めてだったものですからその気持ちよさに驚いて、感激のあまり、その夜は何回も何回もその女を求めて昇天したようです。

そのような接待があって、翌日、織田信長の前にその若者が顔を出したときは顔がにんわりとして本当に本当に幸せそうにしていて、昨日とは全く違って、日本をとても好意的に思っているようでした。それからは、その次期酋長はとても協力的になって、話もよく理解して通じて、お互いに理解し合えたように思います。

その後、その若者がホームシックになる度に何回か呼んであげたのですが、最初に呼んだ女は目が飛び出るほどの金額を請求してきて、信長が激怒しながら仕方なく払った、と言うこともありました。その後は値段を確認しつつ、近場の女を呼んだり、最後はやっぱり祇園の女を呼んで最後の別れにしてあげました。最初はあまり理解していなかったのですが、何度もあまりにも女を要求するものですから、「あの女はとても高いのだぞ」と教えてあげると「えぇっ」と驚いて、それほどまでに接待されていたことにようやく気がついたのでした。

今の時代ではこのような夜の接待はあってはならないと一応はなっていますけど、この時は、とても有効に働きました。まさに、この青年がその後、日本とアメリカ西海岸のインディアン社会の架け橋になってくれたのです。

1年くらい日本に滞在していたのですが、それは、日本とアメリカの航路が冬は海が荒れるため使えず、春から秋の期間に限られていたためで、確か春くらいから次の春すぎまでの期間、アメリカに滞在していたように思います。


■アメリカンインディアンの次期酋長の若者が相撲で余興をしたお話

そのタイムラインで織田信長が呼んだだ若者は、滞在の1年の間、特に何か義務があるわけでもなく、日本に対する見聞を深めて日本に親しんでほしい、ということを趣旨としておりました。ですので、基本的には織田信長が行く先々について行って見聞を深めたりしました。

時に、お城の中で相撲の試合が催される時があって、とても強い力士が試合を皆の前で披露したことがあります。

よく知られているように織田信長は相撲が大好きで、その時も、とにかく興奮して「よくやった!!!」と、優勝者を褒め称えました。とても良い試合だったように思います。

その時、この若者も見物していたのですけど、最終的に力士の決着がついて優勝者が決まった後、ふと思いついて、余興として、織田信長がその若者に「どうだ、お主もこの試合に参加してみないか?」と参加を持ちかけてみたのでした。

その若者は、挑戦と受け取ったのか、「ふっ。俺にか? やってやるぜ」みたいな勇ましい表情を浮かべ、少し着替えをして、まわしをつけさせ、まずは、ということで、小手調に、そこそこ強い力士と対戦させたのです。若者は、「要は、この土俵から出せばいいのだろう」とルールを確かめ、試合が始まりました。

どのくらいやるものか? と、周囲が興味深く眺めていたところ、その若者はがっしりと腰回しを掴んだかと思ったら、信じられないくらいの強い力でそのまま持ち上げ、ビュッと土俵の外側にまで相手の力士を投げ飛ばしたのです。

まさかそんな強い力があるとは思っていなかった見物人、それは多くの武士でありますけど、そこにいた全ての武士が「おおおおお!!!!」と大きな驚きの声を上げて感嘆したように思います。

このような正式な相撲の試合で、緊張も少しあったかと思います。ですけど、実力の差は明らかでした。相撲としてのスキルはそれほどなくて、とにかく力任せではありましたけど、その戦闘力の格の違いを見せつけたのです。

あの体の動き、力強さ。まさに戦闘の民なのでしょう。かなりの強さです。そんじょそこらの日本人が力で勝つことはできないでしょう。

相撲の試合で優勝した力士もそれを見ていて、少し冷や汗をかいていたように思います。織田信長が優勝した力士に対して、「どうだ。お主、挑戦してみるか?」と聞いたのですが、しばしの間、何も答えることが出来ずに黙っていた優勝者を見て、「うむ。これは勝てぬな」と心の中で判断し、「よしっ、皆のもの、よくやった!これでお開きだ。」と、催し物をお開きにしました。優勝者に対しては労いの言葉を与え、近くで小さな声で「気にするな。あやつは規格外だ。アメリカの若者は育ちが違うのだろう」と気遣ったのです。


■共栄圏でのアメリカ西海岸の繁栄

そのタイムラインにおいてアメリカンインディアンの次期酋長の若者を呼んでから何ヶ月も経ち、1年が経つ頃になってそろそろ帰国という時期になると大分、日本のことがわかってきたようでした。風土や人々の気持ち、国の在り方も理解した上で、最後に、部族の次期酋長としての約束、を書面にした上で、将来のアメリカと日本との交流を促進させる約束を取り付けたのでした。

その後、その若者は酋長になり、それからも各地の他の酋長のところに赴いては状況の説明と説得を幾度となくしてもらったように思います。

その時、意外にも大きく反響があったのが何度か呼んであげた祇園の女のことで、アメリカのインディアンの部族にはそのような美しく着飾った女は当時いませんでしたので、日本で綺麗な祇園な女性を何度か抱いたというのはアメリカにおいて大層なステータスがあったらしく、ことあるごとに、実務的な話が終わった後にひっそりと滞在中の部族の酋長に「あ、ちょっと聞きたいことが・・・」みたいにこっそり呼ばれてヒソヒソ話をされて、「お主、日本に呼ばれて、そこで、時々こちらでも見るような、美しい髪の日本女性と何度も寝たというのは本当か?」と申し訳なさそうに聞かれて、それに対して若者が「にやっ」として、「ふっふっふ。そうだ。もの凄く丁寧に、俺の体を隅々まで奉仕してくれたぞ。初めての女が日本の女だ。何人も抱いたが、もの凄く良い女だった」というようにいうと大抵はその各地の部族長も「ほおおおお・・・」とエロジジイの表情になって羨ましがって、「そうかそうか・・・」と言って、羨ましがりつつ、格の違いのようなものを感じたようでした。とある部族長はその話を聞いた後に自分の妻や他の部族の女を見つつ、心の中で「ううむ。俺の妻はあんな感じだしな・・・。日本の女か・・・」と、しげしげと日本の女に思いを馳せたりしていました。当時のアメリカ西海岸、特にインディアンの部族においては、日本の女がとにかくステータスになっていたようです。

アメリカはまだ開拓が進んでいなくて、日本の女性はというとそれほど多くなく、それでも各地に多少は出向くことがあって、最初は武士の嫁などで夫についてく場合が多かったですから、そのように大切に扱われている武士の嫁をアメリカンインディアンの人たちが見ることで、女の美しさの格の違いというものがあったように思います。

織田信長が生存していた頃はアメリカ西海岸を磐石なものとし、だいたいグランドキャニオンの周囲とその西側が勢力下だったように思います。元々アメリカ中部にはインディアンが大勢いて、そこに白人も少しずつ増えてきている状況ではありましたけど、その後100年くらい経ってから「アメリカインディアンの元々の土地を取り戻す」として、アメリカの西海岸から中部に向けて共栄圏の方から侵攻を開始し、それは特に大きな抵抗もなくアパラチア山脈の西側までインディアンの土地を取り戻したように思います。

その後は現代までアメリカの国境線はアパラチア山脈に沿ったところで安定しており、アメリカでの戦争はそれ以後は無かったように思います。

アメリカには日本人が大勢移住しましたが、アメリカンインディアンとは平和な関係が続いて、日本人もアメリカンインディアンも働き者でしたから、お米などを作っても皆がとてもよく働いてくれて、収穫高は食べきれないくらいになりました。

アメリカ西海岸ではほとんど働かなくても生きられる人が増えて、とても豊かな100年間になったように思います。日本列島からの移民者も、約100年に渡って続き、その100年間は日本が統治したアメリカ西海岸の黄金時代だったように思います。


■共栄圏の外側は奴隷が存続する地獄だった

今までしばらく取り上げてきた共栄圏の存在したライムラインは、共栄圏の内側では理想的な分かち合いと自由が担保されていたことを見てきました。それは細かく見れば完璧ではないものの、そこそこの自由と分かち合いが実現できた、それなりに理想に近い世界だったように思います。

しかしながら、そのタイムラインにおいては、共栄圏以外の地域においてはかなり地獄のような状況でした。

現代と同じくらいの時代にまで至っても未だ奴隷が存在し、奴隷解放などという兆しも全く見えず、人を人と思わず、賃金も払わず、数百年前にアメリカで行われていたように、掘立て小屋に奴隷を住まわせて強制労働させるというような状況が現代と同じくらいの時代になっても変わらず行われていたように思います。

アメリカというのは地続きでしたから、そのタイムラインではアパラチア山脈より西側は日本の共栄圏で東海岸は欧米の管理をしておりましたから、アメリカのアパラチア山脈が地獄と天国の分かれ目だったわけです。

当時、アメリカでは奴隷解放が叫ばれていて、アメリカ東海岸の地域は奴隷を止めるべきだ、という主張が共栄圏の方からなされていましたけど、アメリカ東海岸など欧米諸国は聞く耳を持ちませんでした。

そこで、民間が主体となって奴隷を少しづつ解放させることにしました。

まず最初は、単に奴隷が逃げてきたところから始まりました。

アメリカ東海岸から奴隷が共栄圏まで逃げてきたのですけど、最初に逃げてきたのはまだ織田信長が生存していた頃で、逃げてきた元奴隷を共栄圏が匿っていたわけですけど次第にそれが問題化してきて、やがて織田信長は外交文書を受け取って「奴隷が共栄圏に逃げ込んだが、返却願いたい」という願いに対してどう答えるか悩むことになります。

ここで突っぱねたら戦争になるかもしれませんし、あるいは、許容するとしても奴隷を返すというのは人道的に問題があります。

そこで織田信長は次のように答えました。

「奴隷は東海岸では物であり、所有物であったように思う。しかしながら、共栄圏においては彼は物ではなく一人の人物として自己の自由が保障されている。もし彼が自分の意思で東海岸に戻って自分が奴隷になるというのならばそれは本人の自由であるから妨げられるものではないが、共栄圏では各人の自由が保障されているため、物ではなく人である彼を共栄圏の権限を持って返却することはできない」

というように返事をし、要は要求を突っぱねたのでした。

そうしたら欧米諸国は怒り狂って、「見てろ。思い知ることになるぞ」と脅迫の外交文書を送ってきましたのでそれは宣戦布告に違いないと思い、船での見回りを強化し、日本の各国に対して外国との戦争に備えるよう、指示を出しました。

結局は本当に攻め入ってくることはなかったのですけど、そうして外国の脅威があることで、少し不穏になっていた内紛の火種が緩和されて、外国に目が行っている間は国内の騒乱は無かったように思います。

そうこうしているうちに、織田信長の戦略により、南米ポトシの銀山を侵攻することにしました。欧米諸国はなまじお金があるからこんな遠くにまでちょっかいを出してくるわけで、ペルーの駐留艦隊の規模はそれほど大きくないことがわかっていましたので、偵察をまずは行ってポトシへのルートを確認した後、一個艦隊を送り出してポトシを制圧したのでした。

このことで南米における共栄圏の地位は盤石となり、一方、欧米への膨大なお金の流入が終わって遥々遠くの太平洋にまでちょっかいを出してくることはなくなりました。

しかし、共栄圏の外側では地獄が続き、奴隷制や、人を人と思わぬ統治が続いたのでした。


■ライトワーカーが闇の支配者を光に導くことで地球が存続する

この共栄圏のタイムラインにおける話が現代と同じくらいの時代まで続きますが、そうして、共栄圏の外側での地獄を表面上は批判しつつも実質的には放置して、共栄圏の内側で平和を享受しながら地獄の欧米諸国を遠くから非難するだけ非難して悪者扱いをし続けた結果、共栄圏とそれ以外の地域との意識の格差が広がり、欧米諸国で核戦争が勃発する原因にもなったのでした。

更には、実際のところ、労働者という面において共栄圏においては元奴隷の人たちを畑作業に大勢用いており、共栄圏の外側を批判しつつも実質的には労働者供給を共栄圏の外側の元奴隷に頼っているという強い依存関係が共栄圏にはありました。それは口先では奴隷を批判しつつも奴隷に頼っている状況にあったのです。

この状況を打破するには、共栄圏としても自主自立をして自身で労働者を捻出する必要がありましたし、共栄圏の外側にしても奴隷に頼らない社会を作る必要がありました。しかし、どちらも相手を批判しつつも積極的に打破しようとはしていなかったのです。せいぜい、奴隷解放運動として奴隷を手引きして共栄圏にまで逃れさせはしますが、それは、上記の通り、元奴隷の労働に頼っているという面もありましたので、本当に共栄圏の外側で奴隷が完全に解放されたら困ってしまう人たちがそれなりにいたわけです。

とは言いましても大枠を見てみれば共栄圏が平和だったことは確かなわけで、問題はありつつも、共栄圏の外側の地獄より格段に良い世界であって、共栄圏の外側から見れば天国のような世界だったわけです。そのような世界で、共栄圏の中のぬるま湯に浸かり続け、ちょっとした奴隷解放運動に参加して少しの奴隷を解放し続けてそれだけで満足したり、あるいは、批判を続けるだけで実質的にそこまで積極的に動かないライトワーカーたちが大勢いました。

これはそのタイムラインでは良いこととされていましたし、それ自体は良いことであるのは確かではあるのですけど、それでは地球が救われるには不十分なわけです。

それ故に、上に書きましたようにライトワーカーが支配者層の懐に飛び込めば地球は良くなるというのはまさにこのことで、遠くから「酷い国だね」と眺めたり見下している限りは地球は存続しなくて、そうして見下している西洋諸国が地球を破壊してしまうのです。よくて大陸やヨーロッパが吹き飛ぶ未来で、悪ければ地球が粉々になって人類滅亡なわけです。

はっきり言いまして、ライトワーカーたちが何かできる余地は多分に残っていて、そのための時間も沢山ありました。ですけど、ライトワーカーたちが天国のような共栄圏でぬくぬくと暮らしていて本来の役割である、闇を光に導くという役目を十分に果たさなかったが故に地球が破壊されてしまったのです。

何度やり直しても破壊されてしまっていて、20回か、細かいやり直しも含めれば30回くらい挑戦して、そのどれもことごとく大陸が吹き飛ぶか地球が粉々になっていますので、おそらくは、今のままのやり方をしていてもこの危機は乗り越えられないのだと思います。

私が今この状況において教訓として思うのは、ライトワーカーが闇の勢力の懐に飛び込むことが本当に必要にされていて、この今のタイムラインにおいてもそれはそうで、ライトワーカーたちはコミュニティを作りたがることが多くて、それはそれで確かに必要なのですけど、コミュニティがある程度成長した後に、そのコミュニティが人里離れて自分達の生活を守るという孤立した方向に進むことがかなり多いわけですけど、おそらくは地球が存続するためにはそのコミュニティの幾つかは決断して闇の勢力の懐に飛び込んで、闇を光へと変えてゆく役割を負わなくてはならないのです。

全部とは言いませんけど、幾つかのコミュニティが決断して闇の懐に飛び込むことで地球は存続する可能性が出てきて、そのことによって闇落ちだとかオーラが汚れるとか色々な危険はありますけど、元々ライトワーカーたちはそのくらいの覚悟を持ってこの地球に生まれてきている筈で、今更、そんなリスクがあるから辞めます、みたいなお話をするくらいなら最初から関わらなければ良いのです。地球を良くすることを目的にこのタイムラインに飛び込んできたのならば自分達が心地いいコミュニティを作ってそこに収まるのではなく、闇の中に積極的に飛び込んで闇を光に変えてゆくという姿勢が求められていると思います。

今まで共栄圏のタイムラインをしばらく見てきましたが、そこで得られる最大の教訓はこの部分で、ライトワーカーが闇の勢力の懐に飛び込むことで地球が存続する、というところだと思います。