エゴ(自我)を愛で包むのは結果であって行動や手段ではない

2022-05-19
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

私に言わせてみれば、エゴを愛で包むなんてのは結果のお話であって、結果としての状態のお話であって、行動ではないのです。

ですから、エゴを愛で包みましょう、なんて言っても普通はできなくて、できる人は最初からできていて単に自覚したというくらいの違いでしかなくて、できない人はそう言われてもすぐにはできないわけです。

それには順番があって、やはり最初は瞑想で集中して雑念を少しづつ減らして、それから静寂の境地に入って、そのくらいになるとクンダリーニも動き出して、静寂が極まると観照が始まって、観照が安定してくると胸の奥でハイヤーセルフの愛と感謝が満ちる状態になって、そのハイヤーセルフの愛と感謝が安定してきてエゴも十分に癒されるとエゴの周りをしっかりとハイヤーセルフの愛と感謝が包み込むようになり、ここに来てようやくエゴを愛で包むと言える段階に到達するわけです。

エゴが何かに傷ついた風になったりかつて過去のトラウマだったようなことを思い出しても、ハイヤーセルフの愛と感謝がしっかりと包んでいれば胸の中でエゴが少し苦しんだかのようにしかならず、揺れ動くエゴがハイヤーセルフの包みから外に出ることは基本的にはなく、全ては完全な観賞の状態のまま感情が完全にハイヤーセルフによって経験・観察されるわけです。

その時、実際に胸の中でエゴが少し苦しみ、しかし、ハイヤーセルフは静かに観照しています。

この種のお話はスピリチュアルでよく聞いて、割とスピリチュアルで常識みたいになっていますけど、観察しましょうとか受け流しましょうとか感謝しましょうとか愛しましょうとか、そんなことを言われても、それは前に書いたのと同じく、結末でしかないですので、そのようにしようと思っても、直接的にはできないお話なのです。これらの状態は結果ですから手段は別にあって、まずは瞑想から始めてハイヤーセルフの愛と感謝に辿り着くわけです。

ちなみに、エゴだけになってハイヤーセルフが出てこられないほど不浄になっていると文字通りエゴまみれの人生になりますし、一方で、エゴが弱くてハイヤーセルフ優勢すぎても人生を生きるのに苦労することになります。どちらもあって、協調するのが理想的な状態なわけです。スピリチュアルな人は割とエゴ(自我)を軽視しがちで、エゴを悪者扱いにしてしまうことが往々にしてありますけど、実際には、しっかりと浄化できていさえすればエゴはしっかりと自分の仕事をしてくれる有能な器官なわけです。周囲の状態をしっかりと見て、反応して、認知するためには曇りのない感覚器官が必要で、エゴというのはしっかりと働いていさえすればとても役に立つものなわけです。

(続きます)