執着と楽しみを区別する

2022-05-04 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

時々、この区別ができていなくて、悟りを求めるためには楽しんではいけない、みたいに勘違いされている方がいらっしゃいます。特に仏教系なのでしょうかね。釈迦の教えに従うとあまり楽しんではいけなくて、楽しんでいるようでは悟りなんて無理、みたいに発言する方が時々いらっしゃいます。

まあ、仏教の特定の流派の教えに従うとそういう解釈になるのかなと思いますけど、私から言わせれば、そう言っている人は楽しむことと楽しみへの執着とを混合しているかあるいは区別がついていないのですよね。

これは言葉遊びとか言葉尻のお話ではなくて、実際に、認知として別物として普段からそれと認識できるかどうか、というお話です。これは、単なる表現のお話ではなくて、サマーディ(三昧)とは一体何なのか、という根本的な理解が足りていないからこのような発言に至ると思うのです。

私から言わせれば、楽しみは楽しみとしてあってよくて、ですけど、執着はしないのです。

人間ですからある程度の楽しみの追求というものはあって、その場合でも、サマーディの意識下において選択的に行うと言うことであればそれは執着ではないのです。楽しんでいるときに、またその楽しみが欲しいとか欲求したり、あるいは、楽しみが消えてしまうことを嘆き悲しんだりするのは愚かなことだと仏陀が説いていてそれが執着だと言うお話それ自体はその通りなのですけど、それは、楽しんではいけない、と言うことではないのですよね。

ブッダが言っているのは、サマーディの状態においては執着はなくなる、ということかなと思うわけです。

時折、仏教を勉強された方が、楽しむことそれ自体がいけないことだ、みたいな解釈をしているのを見るのですけど、それは、本筋から言えば、そう言うことではないのです。

ブッダが言っていたのは、文字通り、執着するのがいけない、みたいなお話であって、おそらくはブッダはネガティブな意味だとか禁止だとかは言っていなくて、ただ単に、現象として、悟りを得ればそのような執着がなくなる、とだけ言っていたのが基本で、その状態に至るために、ブッダが今までやっていた修行方法を同じようにやらせてみて、そのために、禁欲みたいなお話も出てきたのかなと思います。あるいは後世の人たちが自在に解釈して禁止みたいにルールにしてしまった可能性もあると思います。

当人に聞けないので想像するしかないわけですけど、ブッダがそのような禁止令をしのだとしても、そのように禁止したことと、悟りの境地とは、若干違う筈なのです。ブッダも、その辺りをきっとわかっていてやっていたのではないかと想像しますけど、修行のためにルールを設けて禁止することと、悟りの境地とは少し異なるのです。


■楽しみはあってよくて、執着しない

ですから、流派で楽しみを禁止していたとしても、それは単にその流派がそう解釈していると言うだけのことで、実際は、楽しむことと悟りとは共存できるわけです。とは言いましても楽しみのやり方によっては悟りを破壊するような享楽的な楽しみというものもありますので一応はそのような禁止令は役には立っているとは思うのですけど、あまりにも流派的な考え方が広まりすぎて、楽しんではいけないかのような誤解が広まりすぎていると思うのです。

楽しみは楽しみとしてあってよくて、でも、執着しない、と言うのが正解なわけです。

ただ、正しい楽しみ方を知らない人も割と多くて、正しい楽しみ方を知らないのであれば間違った享楽的な楽しみであれば禁止してしまった方が良いというのはそれはそうなわけです。

では、正しい楽しみとは何かと言うと、

楽しんだこと、そのこと自体も神様に捧げてしまう。
楽しんだ後、その結果も、神様に捧げるあるいは神様に委ねてしまう。

それだけでよくて、神様もそれで一緒に楽しんでくれます。

でも、人間のエゴが執着してしまうから意味不明な苦しみが生まれるわけです。

その解決策は楽しむことをやめることではなくて、直接的に、その執着さえやめればいいだけなのです。

繰り返しになりますけど、流派で勉強したような方の中には、流派の中あるいは他人の姿を見て、誰それは楽しんでいるから悟りの道から踏み外してしまっただとか色々と陰口を叩いたりする人がいらっしゃったりしますけど、まあ、そう言うお話と実際の悟りの姿はかなり乖離があって、悟りの道というのはもっと本当に単純なのです。本当は戒律なんていらなくて、ただ、サマーディの意識があればそれだけで良いのです。

一見すると楽しんでいてもそれはサマーディですし、一見して楽しんでいなくてもそれはサマーディなのです。そのサマーディであれば幸福に満ち溢れていて感謝に満ちていて愛が溢れているわけで、その時に、表面上で楽しんでいる感じになったりそうではなかったりしたとしても、そのような表層のお話とサマーディの意識とはほとんど関係がなくて、サマーディであれば常に感謝していて愛に満ちていて幸福ですので、そのサマーディの基礎があった上で、世俗的なことをなんとなく楽しんでいる風にして見せてもそんなそんなこと何もしなくても、そのような表層に関係なく、常にサマーディなわけですから、一見して世俗的なことで楽しんでいるかどうかと悟りとは何の関係もないわけです。

ただ、悟りを破壊する種類の楽しみというものは存在して、悟りを求めるのであればそれはやめておいて方が良いのではないかなと思います。