(続き)
ですから、流派で楽しみを禁止していたとしても、それは単にその流派がそう解釈していると言うだけのことで、実際は、楽しむことと悟りとは共存できるわけです。とは言いましても楽しみのやり方によっては悟りを破壊するような享楽的な楽しみというものもありますので一応はそのような禁止令は役には立っているとは思うのですけど、あまりにも流派的な考え方が広まりすぎて、楽しんではいけないかのような誤解が広まりすぎていると思うのです。
楽しみは楽しみとしてあってよくて、でも、執着しない、と言うのが正解なわけです。
ただ、正しい楽しみ方を知らない人も割と多くて、正しい楽しみ方を知らないのであれば間違った享楽的な楽しみであれば禁止してしまった方が良いというのはそれはそうなわけです。
では、正しい楽しみとは何かと言うと、
楽しんだこと、そのこと自体も神様に捧げてしまう。
楽しんだ後、その結果も、神様に捧げるあるいは神様に委ねてしまう。
それだけでよくて、神様もそれで一緒に楽しんでくれます。
でも、人間のエゴが執着してしまうから意味不明な苦しみが生まれるわけです。
その解決策は楽しむことをやめることではなくて、直接的に、その執着さえやめればいいだけなのです。
繰り返しになりますけど、流派で勉強したような方の中には、流派の中あるいは他人の姿を見て、誰それは楽しんでいるから悟りの道から踏み外してしまっただとか色々と陰口を叩いたりする人がいらっしゃったりしますけど、まあ、そう言うお話と実際の悟りの姿はかなり乖離があって、悟りの道というのはもっと本当に単純なのです。本当は戒律なんていらなくて、ただ、サマーディの意識があればそれだけで良いのです。
一見すると楽しんでいてもそれはサマーディですし、一見して楽しんでいなくてもそれはサマーディなのです。そのサマーディであれば幸福に満ち溢れていて感謝に満ちていて愛が溢れているわけで、その時に、表面上で楽しんでいる感じになったりそうではなかったりしたとしても、そのような表層のお話とサマーディの意識とはほとんど関係がなくて、サマーディであれば常に感謝していて愛に満ちていて幸福ですので、そのサマーディの基礎があった上で、世俗的なことをなんとなく楽しんでいる風にして見せてもそんなそんなこと何もしなくても、そのような表層に関係なく、常にサマーディなわけですから、一見して世俗的なことで楽しんでいるかどうかと悟りとは何の関係もないわけです。
ただ、悟りを破壊する種類の楽しみというものは存在して、悟りを求めるのであればそれはやめておいて方が良いのではないかなと思います。