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原体験に基づくサット・チット・アーナンダの解釈

2022-05-10
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

原体験がある人は、ヨーガなどをした時に感じたり変化したことを、原体験に基づく解釈をしてどう感じたかを表現します。

一方、原体験がない人は、どうやら、そのままの感覚しか解釈がないようで、その感覚や解釈には意味がそれほどない、と解釈することが多いようです。ヨーガのとある団体においては指導者から「瞑想中に見聞きしたものは重要ではない。光や音、あるいは神々の映像などは瞑想の妨げになる」みたいに指導されて、まあ、それはそうなのですけど、個々の感覚というのは、原体験を理解するための助けにはなるわけです。

原体験それ自体が割と日常になって普通になるところに達するまでその探求は続いて、そうしてスピリチュアルが日常になってしまいさえすればその原体験は特別なものでなくなり、原体験の意味が薄れていって、言いようによっては「(原体験は)実はそこまで意味がないものだった」ということも一応はできて、そうなってしまえば原体験は意味が薄れていくわけですけど、そうして原体験が記憶の彼方に消え去って、(今から思えば)原体験がそこまで意味があるものではなかったかもしれない、という理解に達するまでそれは続いて、更に道は続いていくわけですけど、そうは言いましても、原体験は道標としてとても有効に働くわけです。

例えば、幽体離脱してハイヤーセルフ(グループソウル)としての自分の大元、それは自分が分霊として分離した際の大元になっている魂の存在、見ようによってはハイヤーセルフですしグループソウルとも解釈できるその根源の魂と幽体離脱して対峙する体験などは原体験としてあり得るわけです。

自分の魂が再度そのハイヤーセルフ(グループソウル)の中に溶け込み、記憶を共有して、その後、再度、離脱をして、自分という肉体の魂にもう一度降りてくる。そのような原体験があると、スピリチュアルというものの解釈も随分と異なってきます。

自分という存在が実は幻想でしかなくて、魂の分離や融合によっていくらでも自分というものは変化して、そのようにハイヤーセルフ(グループソウル)に融合や分離をすると昔の自分とは実はオーラ的には半分くらいしか元のままでしかなくて残り半分はハイヤーセルフ(グループソウル)からもらってくるわけです。じゃあ、元の半分はどうなったかというと、ハイヤーセルフ(グループソウル)に置いてきたわけです。半分は置いてきて、半分は新たにもらってきた上で自分というものが出来上がるわけで、そうなってくると、自分と思っていたものが実はかなり曖昧なものでしかなくて、自分と思っているのは一時的に分霊になっているからそう思っているだけで、実際は、ハイヤーセルフ(グループソウル)という単位で何度も分霊を作って人生の経験を積み上げているわけです。

そのようにハイヤーセルフ(グループソウル)に融合するとそこは光の海で愛に満ち溢れており、エネルギーの総量も高く、満ちている状態です。そのような状態を表現するため、あるいは、理解するためにヨーガやヴェーダンタの勉強や理解は役に立って、例えば、ヨーガやヴェーダンタでは本当の自分とはSat、Cit、Anandaだと言われていて、存在・純粋意識・満ちている(至福)と解釈されますけど、そのような理解とは、他の人にとっては聖典の勉強あるいは悟りの追求ということになるのでしょうけど、私にとっては、原体験であるハイヤーセルフ(グループソウル)との融合と分離という状態を理解するための鍵になっているわけです。



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