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サマーディの状態では自己の行動の面が観察される

2022-05-03
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

自己の行動の面とはヴェーダンタで言うところのジーヴァ(自我、アハンカーラ)としての自己における行動の面で、その行動とは人生のあらゆる行動が当てはまります。そして、その、ありとあらゆる行動が観察されるのです。

そうしてサマーディの状態になった時には、行動としての自分が観照されます。

例えば、瞑想をしているのならば瞑想それ自体が観照されます。
あるいは、勉強をして理解しようとしているのならばそれ自体が観照されます。
また、何をするにせよ、その行動それ自体が観照されるわけです。

この時、概ね、ヨーガなど瞑想をしている場合は瞑想という行為そのものが観察され、観照されます。

一方、ヴェーダンタなど勉強と理解を由としている流派においては勉強と理解そのものが観察され、観照されます。

その時、行動と観察する側が一体となっている状態になります。

ヨーガ・スートラにおいてはそのような状態を、見るもの・見る対象・見ることそれ自体が一体となる状態、と表現しています。この辺りは元々のサンスクリットの訳に対して英語あるいは日本語への対訳が書物によってかなり異なっていることがありますが、概ね、seer, seen, seeingの3つが一体となった状態、というように訳されているように思います。

このような状態において、例えばヨーガなどで瞑想をしていると瞑想そのものがサマーディと結びついているかのように理解されてサマーディとは瞑想のことだ、と理解されることになります。

一方、ヴェーダンタなどの流派においては勉強や理解をしているとその理解そのものがサマーディと結びついているかのように理解されてサマーディ(ヴェーダンタはサマーディとは言いませんけど、代わりにモクシャ・自由)とは理解のことだ、と理解されることになります。

そのサマーディあるいはモクシャの状態が起こる時に必ず何がしかの行動と結びつきがなされるのがこの世の常で、ですけど、最初こそそうして行動と結びついて理解されていますが、次第に、どうやらサマーディそれ自体は行動や理解とは関係がなくて、本質的に観照そのものであり、目覚めた意識そのものであることを次第に理解するようになります。

最初こそ瞑想や理解という面においてサマーディあるいはモクシャを理解するのですが、次第に、行動や理解という特定の状況下から離れてより一般的に目覚めた意識それ自体が存在することに気が付き始めるのです。



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