ヨーガ・スートラ、知るものと知られるものと知の区別のない状態

2022-04-23 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

▪️相対的なジーヴァとしての自分と絶対的なアートマン

ジーヴァとは相対的な二元論に支配された自分のことで、アートマン(あるいはブラフマン)というのは一元的な普遍としての自他の区別のない私のことであり真我(=アートマン)とも言われます。

このジーヴァという言い方はインドのヴェーダンタ的な言い方ですけど、仏教的に言えば煩悩とかエゴ(自我)とか色々と言い方はありますけど、ジーヴァという時は仏教ほどネガティブな意味はなくて、ただ単に、相対的な二元的な世界における自分という意味で使われています。それはただ単に表現的なもので、人間というものは二元的なジーヴァという側面と絶対的なアートマン(真我)という側面の両方が備わっているものなのです。

このあたり、仏教の顕教では二元論を基にしてまず相対的な真実を説いて道徳などを語り、愛や思いやりの心(慈悲)を育てるように教えています。密教においても基本は二元論であり、自他の区別があります。どちらも、この世の真実を良い・悪いに分けて、顕教では良い面を伸ばすことを言っていて、密教では悪いイメージを仏のような良いイメージに変容させて昇華します。やり方は違うのですけど、基本は二元論なわけですので、良いものと悪いものという区別があって、良いものを選択する、あるいは、悪いものを良いものに変容させるということをしているわけです。

仏教の顕教にしても密教にしても最初はそのようにやり方は違うのですけど到達点としては割と同じで、顕教の場合は静寂の境地(止、シャマタ)を基本としていて、それに加えて、慈悲の心を大切にしています。こうなるといわゆる三昧(サマーディ)の状態になって二元論から突破できるわけです。

一方、密教の場合はイメージを使って御本尊のような仏の形に心を作り替えて悪いイメージや雑念を昇華させることをした後に、自分が御本尊のイメージと一体となって二元論の相対的な世界を突破することを目的としています。

どちらも二元論から始まってはいるものの、到達点としては二元論を突破できるわけです。

そうは言いましても現状を見てみると二元論を突破できている人はそれほど多くなくて、実際のところ、流派で修行している人よりも一般大衆に紛れ込んでいて実は悟っているような人の方が数としては多いのではないか、という気が私はしております。

それはさておき、この二元論ですが、仏教では二元論が話題に上がりますけど、インドのヴェーダンタ、あるいはチベットのゾクチェンの考え方に基づきますとそもそもこの世界は絶対的なアートマンとしての真実があって、それは一元論なわけです。

この一元論は、ただそれだけを聞いてしまうと「ふうん」みたいな感じになってしまいますけど、そこで言われているのは仏教の顕教や密教で修行した後に見えてくる世界なわけで、その修行後の世界には自他の区別はなくて、一元論なわけです。

そうなれば一元論として正しいお話ではあるのですけど、物事をさらに複雑にしているのは、それを伝承しているヴェーダンタなどの流派の人たちが必ずしも悟っているわけではない、という点で、そうなると、本来であれば一元論として悟った後の世界、サマーディ(三昧)の状態の説明の筈なのに説明が伝承や口伝ベースになってしまっていてどこか不思議な説明が残る、というのは分かりにくい点ではあるかと思います。

ですけど、一旦わかってしまえば、それはただの表現の違いとして理解できるお話なわけです。


▪️インドのヴェーダンタは二元論を基にして一元論を説く

ヴェーダンタは不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)とも呼ばれていてシャンカラという聖者から続く教えであるわけですけど、ウパニシャッドの教えに基づいていてブラフマン(あるいはアートマン)のみがこの世に存在している、と説いています。

二元論の世界はヴェーダンタではジーヴァの世界と説明されていて、自他の区別があって、自我(エゴ、アハンカーラ)を自分だと思っているのがジーヴァの世界です。

それと重なるようにしてアートマン(真我)としての世界も説明されていて、ジーヴァとしての自分は本当の自分ではなくてアートマンこそが本当の自分で、そこには自他の区別はなくて、Sat Cht Ananda という3つの側面がある、と言います。

・Sat 永遠の存在
・Cit 意識
・Ananda 満ちている(よく至福と訳されますけど、満ちているから至福という意味)

この3つの側面があるアートマン(あるいはブラフマン)こそが本当の私、と教えているのがヴェーダンタの不二一元論で、そこでは、ジーヴァとしての私とアートマンとしての私という二つの側面があります。実際にはアートマンの私が本当であって、ジーヴァとしての私は本当ではない、としているわけです。

ジーヴァとしての私は相対的で、私と他人という区別があって、良い悪い、正義と悪という区別もあります。
一方、アートマンとしての私は絶対的で、私と他人という区別はなくて、良い悪いという区別はなくて、正義と悪という区別もありません。

アートマンとしての真実はジーヴァとしての活動や行動に影響されずに絶対的に存在しています。

Satは存在で、時間軸に影響されずに過去・現在・未来に渡って常に存在しているという意味です。
Citは意識で、意識が満遍なくこの世界に満ちています。
Anandaは書籍では至福と訳されることが多いですけど本来の意味は満ちているという意味で、満ちているから幸福なわけです。

これらは一応は3つの側面として説明されてはいますけど、あくまでも説明のもので、実際の姿は本当に知ることでしか分からないわけです。ですけど、これら3つの説明は遠からず当たっているように思います。

アートマンとしての真実はなかなジーヴァとしての自分にとっては認知できないわけですけれども、アートマンこの世界に現れる時の側面の説明としては創造・破壊・維持という3つの側面がやかりやすくて、それぞれ神様が象徴としてあてがわれています。

・ブラフマ 創造
・ヴィシュヌ 維持
・シヴァ 破壊

アートマンとしての自分はジーヴァとしての自分としは不可知なのが基本ではあるのですけど、実際のところ、アートマンはアートマン単体としては存在していなくて常にグナ(物質的要素)が一緒にいて、アートマンとグナが合わさるとイーシュワラあるいはジャガット(世界)としてこの世界に現れるわけですけど、そのようにこの世界として現れる時に現れる3つの側面があるわけです。

瞑想中に、アートマンそれ自体はグナがないので認知できないですけどグナと合わさった時のこれら3つの側面、創造・維持・破壊であれば瞑想中に認知して、それこそがアートマンのこの世に現れた(グナと合わさった時の)イーシュワラとしての側面であることが理解できます。

それは最近のスピリチュアルではハイヤーセルフとも言われているものと同一で、ハートを中心としてイーシュワラあるいはアートマンあるいはハイヤーセルフを感じることができます。

インドの流派に伝えられることによると、このアートマンを知ることによりモクシャ(自由)を得て、カルマによる輪廻転生のサイクルから解放される、と言われています。


▪️流派によって多少解釈が異なるようにも見える不二一元論

不二一元論それ自体は正しいのですけど、流派によって多少は説明が違うようで、特に、ジーヴァの側面をどう捉えるか、において流派による相違を感じることがあります。

そのあたり、インドの学派の説明よりは、チベットのゾクチェンの説明を基にした方がすっきり全てが説明がつくように思います。

と、言いますのも、ヴェーダンタの考えに基づくと、真実ではない私という側面であるジーヴァという世界はアートマンとしての自分という側面を知った(完全に理解した)という時点で消え去る、と説明されているからです。ここは重要なポイントです。

重要な点としては、ヴェーダンタの教えによれば、ジーヴァの世界はアートマンの自分を正しく理解した時点で消え去るのです。これは、体が消えるということではなくて、認知においてジーヴァの世界が消え去る、ということです。

一方、チベットのゾクチェンの教えに基づけば、いわゆるジーヴァとしての自分が二元論に生きていようがいまいが、本当の自分(心の本性であるセムニー)は変わらない、と言います。変わるのは、目覚めた意識(リクパ)があるかないか、という点だけだと言います。

これは、文字だけを読むと同じように聞こえるかもしれません。しかし、流派の教えに基づけば、かなりニュアンスが違うのです。

ヴェーダンタにしても、ゾクチェンにしても、絶対的な真実の側面は相対的な自分に影響されずにありのままであり続ける、と言います。その説明は同じです。ですけど、ヴェーダンタの方は相対的な自分を絶対的な自分に変容させるというニュアンスを含むのです。この辺り、ヴェーダンタの人は変容という言葉を使わなくて「理解」という言葉を使いますので、説明としては正しいのですけど、ニュアンスとして変容という意味を含むのです。言葉としては正しくても、おそらく、流派にいる人たちがその「理解」という意味と、「それは、変容ではない」という意味を正しく理解していないが故に、言葉で「変容ではない、理解だ」と言いつつも言葉の説明の各所に「変容」というニュアンスを含んでしまうように思うのです。

まあ、この辺りは主観的な印象ですので本当は説明に苦労しているだけで実際は全て理解しているのかもしれませんが、そうでないかもしれません。

私の見たところ、言葉としては同じことを言っているものの、流派のやり方、その伝統が、どこか違うように思うのです。

ゾクチェンやヴェーダンタの考え方に基づけば、絶対的な真実としての私は相対的な自分に影響されず、感情や思考があったとしても問題ないことになりますが、実際の姿として、どのような行動や思考が許容されるかは流派によって違いがあるように思うのです。

まあ、それは、修行の場としてはある程度は正しくて秩序ある生活をすることは修行に大切ですけど、伝統や口伝が優先して、本当のところが少し違って解釈されているようにも思えるのです。

とは言いましても、インドのヴェーダンタにしても流派が色々とあるようですので、場所によっても違うでしょうし、これだけのシンプルな話だけでもないとは思います。


▪️サマーディから見た視点がヴェーダンタの「理解」

ヴェーダンタの人が言う「理解」と言う言葉はなかなか特殊な意味合いを持っていて、それは基本的には普通の意味で「正しく、完全に理解する」と言う意味を含むわけですけれども、どうやら、その意味が本筋ではないように私には思われます。

ヴェーダンタ的にはそのような解釈はしていなくて、あくまでも理解は理解でしかなくて、理解しさえすれば良い、みたいな説明を基本としていて、それは「行動ではないので、理解のこと」として説明されていますけど、そういう説明では全体像を表現できていないように思います。

普通に「理解」と言うと顕在意識の記憶や思考における反応や論理のことを意味することが多いと思いますが、ヴェーダンタが言う「理解」とは論理と解釈されることもありますけど、それよりは、「直視」に近いように私には思えるのです。ただ、ヴェーダンタの人は「直視」とは言わなくて「理解」と言うので、これまた混乱するわけです。

理解しさえすればこの地上の輪廻から解放されて自由になる、とヴェーダンタの人は言って、そのことをモクシャと言っていたりしますけど、そこで言っている「理解」とは普通の頭での理解ではないように私には思われます。

とは言いましても、ヴェーダンタの人は「正しく理解すれば、それだけで良い」みたいに言ったりしますので、これまた、表現として、とても混乱するわけです。

更には、ヴェーダンタ的にはヨーガなどで言うサマーディの状態を「行動」であるので「一時的なもの」であり、それはモクシャ(自由)ではない、としています。これまた、サマーディという言葉について混乱があるわけです。

ここで、ヴェーダンタの言葉を一旦置いておいて、私なりの解釈をします。

私の解釈では、サマーディから見た視点がヴェーダンタでいうところの「理解」なのです。

このような解釈はすっきりします。とても明確です。

これを、もう少しヴェーダンタ的に解釈してみましょう。ヴェーダンタではこの世(ジャガット)を、特に人間の視点においてジーヴァ(自我における自分)とイーシュワラあるいはアートマン(本当の自分、真我)に分けています。

この時、アートマン(真我)からジャガット(世界)を見ることが「理解」なわけです。

ジャガット(世界)はジーヴァ(自我としての自分)を含みますから、上記を自己のスピリチュアルな視点に絞れば、アートマン(真我)からジーヴァ(自我としての自分)を見ることが「理解」、とも言えるわけです。

・アートマン(真我)からジャガット(世界)を見ることが「理解」
・(自分、という視点に立つと)アートマン(真我)からジーヴァ(自我としての自分)を見ることが「理解」

更には、アートマン(真我)とは本来はブラフマン(全体としての真我)と同一であるとヴェーダンタでは説いていますから、その立場に立つと以下のようにも言えます。

・ブラフマンからジャガット(世界)を見ることが「理解」

これを、ヴェーダンタ的には理屈で理解していて、しかし、それがサマーディのことだとは言っていません。しかし、これは私の認識に基づけば、サマーディからの視点そのものなわけです。

サマーディというのは自我という自分の枠組みから抜けてアートマン(真我)としての視点を持つことですので、それは観照とも言えますし、あるいは「直視」ということもできます。それを一部の流派が「理解」と言い換えたところで、言われてみればそういう言い方もあるかもしれない、誤解があるかもしれないけれども、そういう言い方も一応はありかな、というくらいの違いでしかなくて、サマーディのことを「理解」というならば、それはそれで一応はありかなと思います。

確かに、言われてみれば、サマーディの状態は単に認知するだけですのでそれは一応は「理解」と言えなくもなくて、ですけどそれはより直接的な理解であって、理解というよりは「知識」そのものでありますので、理解というと論理や思考も含んでしまいがちですけど、ここで言っている理解とは自我としての思考は含んでいなくて、知識そのものしかないわけです。そのことを「理解」というのならば、それはそうかな、とも一応は思えるわけですけど、個人的には、とても誤解のありそうな表現だなぁ、と思うわけです。

ただし、このようなことをヴェーダンタの人に言ったところで言葉の違い、表現の違いがありますので、わざわざこのような解釈に対する同意を求めるというような野暮なことは基本的にはしません。雑談くらいはするかもしれませんけど。ただ単に、私の感覚だとこのように解釈できる、というだけのお話です。

それぞれの流派は独特の表現を持っていて、それは、それぞれの場合をよく見てみないと解釈できないという好例だと思います。そうは言いましてもスピリチュアルの道は割と共通ですから、表現はかなり違っていてユニークだとしても、基本のところを押さえていれば他の流派であっても理解できるわけです。


▪️サマーディの状態では自己の行動の面が観察される

自己の行動の面とはヴェーダンタで言うところのジーヴァ(自我、アハンカーラ)としての自己における行動の面で、その行動とは人生のあらゆる行動が当てはまります。そして、その、ありとあらゆる行動が観察されるのです。

そうしてサマーディの状態になった時には、行動としての自分が観照されます。

例えば、瞑想をしているのならば瞑想それ自体が観照されます。
あるいは、勉強をして理解しようとしているのならばそれ自体が観照されます。
また、何をするにせよ、その行動それ自体が観照されるわけです。

この時、概ね、ヨーガなど瞑想をしている場合は瞑想という行為そのものが観察され、観照されます。

一方、ヴェーダンタなど勉強と理解を由としている流派においては勉強と理解そのものが観察され、観照されます。

その時、行動と観察する側が一体となっている状態になります。

ヨーガ・スートラにおいてはそのような状態を、見るもの・見る対象・見ることそれ自体が一体となる状態、と表現しています。この辺りは元々のサンスクリットの訳に対して英語あるいは日本語への対訳が書物によってかなり異なっていることがありますが、概ね、seer, seen, seeingの3つが一体となった状態、というように訳されているように思います。

このような状態において、例えばヨーガなどで瞑想をしていると瞑想そのものがサマーディと結びついているかのように理解されてサマーディとは瞑想のことだ、と理解されることになります。

一方、ヴェーダンタなどの流派においては勉強や理解をしているとその理解そのものがサマーディと結びついているかのように理解されてサマーディ(ヴェーダンタはサマーディとは言いませんけど、代わりにモクシャ・自由)とは理解のことだ、と理解されることになります。

そのサマーディあるいはモクシャの状態が起こる時に必ず何がしかの行動と結びつきがなされるのがこの世の常で、ですけど、最初こそそうして行動と結びついて理解されていますが、次第に、どうやらサマーディそれ自体は行動や理解とは関係がなくて、本質的に観照そのものであり、目覚めた意識そのものであることを次第に理解するようになります。

最初こそ瞑想や理解という面においてサマーディあるいはモクシャを理解するのですが、次第に、行動や理解という特定の状況下から離れてより一般的に目覚めた意識それ自体が存在することに気が付き始めるのです。


▪️知るものと知られるものと知の区別のない状態

ヨーガ・スートラの1章41番でサマーディ(三昧)がそのように説明されています。

透明な水晶がかたららに置かれる物の色や形を取るように、(中略)心は燈明・静然となって、知る者と知られるものと知の区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ(三昧)である。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」

そのヴリッティが無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の対象の前に置かれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、および、うけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」

この訳は英語あるいは日本語にしたときに多分に変化していて、言葉がかなり入れ替わっています。

ヴィリッティ(マインド質量の変質)を完全に統制した者に、認識したものとの同一化つまり類似の状態がやがて生じる。水晶がその中に映っているものの色を帯びるように、知る者、知識、知識の領域が一つになる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」

このスートラは、文字通り読んでしまうと「集中によって対象と心が一体になる」という解釈になりがちな気が致します。元々、瞑想においてサマーディに至る前の段階、集中(ダーラナ)あるいはディヤーナ(瞑想)の状態においてはこれら3つが分離されており、自分という瞑想の主体と、瞑想の対象と、瞑想の行為という3つが存在しているわけです。

そうして、サマーディになるとこれら3つが同一になるわけですけど、文字通り、対象が同一になるという局所的なお話ではないのです。ここは、文字通り読むと誤解されてしまう点かなと思います。

実際のサマーディの姿で言うと、要は観照なわけです。

ヴェーダンタでいうところのアートマン(真我)が全ての行動および更には世界までもを観察する状態になってしまえば、今まで自分と思っていたジーヴァとしての自我(アハンカーラ)による行動はアートマンによって観照され、また、ジーヴァが観察していた対象すらもアートマンによって観照され、また、そこで得られる知識すらもアートマンによって観照されるわけです。

実際は、ジーヴァとしての自我からするとそれら3つの区別は一応はまだ残っていて、しかし、アートマンとしての意識が表れて観照の状態になるとそれら3つが全て繋がったものとして理解されるわけです。その状態においては全ては1つであることを理解しますし、実際の認知においてそのように認識するようになりますから、そうなれば、知るもの(自我、アハンカーラ)と知られるもの(対象)と知識(チッタ、ブッディ)とが一体となって動いていることを認知して観照するようになりますので、実際のところ、訳が言っているように本当にそれらが一体になるというよりは、それよりも上位階層であるところのアートマンの意識が現れることでそれら3つの別々のものが根源では同一であることを理解あるいは認知あるいは観照すると言っても良い状態になるわけです。

ですから、ジーヴァが現れている自我(アハンカーラ)の次元はやがて消え去るわけで、自我としての自分(ジーヴァとしての自分)は本当の自分ではなかったことに気がつくことで自分だとか対象だとかの区別が消え去って一体のものであると認知し始めるわけです。

それは、文字通り読んでしまうと水晶のお話がそれら3つと関連しているかのように読めてしまうかもしれませんが、水晶のお話と3つのお話は前提条件とその条件下における認知を説明しているのであって、文字通り読んでしまうと水晶だからそのように3つが一体になる、というように読めてしまうかもしれませんけど、確かにそういうことではあると言えばあるのですけどその言い方はとても誤解があるかもしれなくて、水晶だから3つが一体になるのではなくて、水晶のような状態に自分がなればそれら3つの区別という幻影が消え去る、という方が正しいのです。

スートラの前半部分で、ヴィリッティが静まった場合に、というように前提条件をつけているのは文字通りそういうことで、心が静まることで心が水晶のように対象を純粋に映し出すようになって3つの区別がなくなる、そして、それがサマーディだ、と言っているわけです。そして、そのサマーディの時にはアートマンが観照する状態になるわけで、それはこのスートラでは言ってはいないわけですけど前後のスートラを読めば割とそれは自明であるわけです。

ですから、割と単純なお話ではあるのですけど、部分を切り出してしまうと変な誤解を招きかねないスートラではあるように思います。