スワミ(僧侶)になって悟りに近づく(同テーマ&時系列の前記事)

相対的なジーヴァとしての自分と絶対的なアートマン

2022-04-27
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ジーヴァとは相対的な二元論に支配された自分のことで、アートマン(あるいはブラフマン)というのは一元的な普遍としての自他の区別のない私のことであり真我(=アートマン)とも言われます。

このジーヴァという言い方はインドのヴェーダンタ的な言い方ですけど、仏教的に言えば煩悩とかエゴ(自我)とか色々と言い方はありますけど、ジーヴァという時は仏教ほどネガティブな意味はなくて、ただ単に、相対的な二元的な世界における自分という意味で使われています。それはただ単に表現的なもので、人間というものは二元的なジーヴァという側面と絶対的なアートマン(真我)という側面の両方が備わっているものなのです。

このあたり、仏教の顕教では二元論を基にしてまず相対的な真実を説いて道徳などを語り、愛や思いやりの心(慈悲)を育てるように教えています。密教においても基本は二元論であり、自他の区別があります。どちらも、この世の真実を良い・悪いに分けて、顕教では良い面を伸ばすことを言っていて、密教では悪いイメージを仏のような良いイメージに変容させて昇華します。やり方は違うのですけど、基本は二元論なわけですので、良いものと悪いものという区別があって、良いものを選択する、あるいは、悪いものを良いものに変容させるということをしているわけです。

仏教の顕教にしても密教にしても最初はそのようにやり方は違うのですけど到達点としては割と同じで、顕教の場合は静寂の境地(止、シャマタ)を基本としていて、それに加えて、慈悲の心を大切にしています。こうなるといわゆる三昧(サマーディ)の状態になって二元論から突破できるわけです。

一方、密教の場合はイメージを使って御本尊のような仏の形に心を作り替えて悪いイメージや雑念を昇華させることをした後に、自分が御本尊のイメージと一体となって二元論の相対的な世界を突破することを目的としています。

どちらも二元論から始まってはいるものの、到達点としては二元論を突破できるわけです。

そうは言いましても現状を見てみると二元論を突破できている人はそれほど多くなくて、実際のところ、流派で修行している人よりも一般大衆に紛れ込んでいて実は悟っているような人の方が数としては多いのではないか、という気が私はしております。

それはさておき、この二元論ですが、仏教では二元論が話題に上がりますけど、インドのヴェーダンタ、あるいはチベットのゾクチェンの考え方に基づきますとそもそもこの世界は絶対的なアートマンとしての真実があって、それは一元論なわけです。

この一元論は、ただそれだけを聞いてしまうと「ふうん」みたいな感じになってしまいますけど、そこで言われているのは仏教の顕教や密教で修行した後に見えてくる世界なわけで、そこには自他の区別はなくて、一元論なわけです。

そうなれば一元論として正しいお話ではあるのですけど、物事をさらに複雑にしているのは、それを伝承しているヴェーダンタなどの流派の人たちが必ずしも悟っているわけではない、という点で、そうなると、本来であれば一元論として悟った後の世界、サマーディ(三昧)の状態の説明の筈なのに説明が伝承や口伝ベースになってしまっていてどこか不思議な説明が残る、というのは分かりにくい点ではあるかと思います。

ですけど、一旦わかってしまえば、それはただの表現の違いとして理解できるお話なわけです。



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