マインドフルネスはダーラナではなくプラティヤーハーラ(制感)

2020-09-11 記載
トピックスピリチュアル

朝の瞑想で見えない存在にインスピレーションで教えられました。どうやらマインドフルネスはダーラナではなくプラティヤーハーラ(制感)のようです。なんてこった・・・。私はどうやらマインドフルネスを買いかぶっていたようです。確かに、初心者向けのマインドフルネス瞑想はやっていることはプラティヤーハーラですね。

マインドフルネスあたりですとダーラナ(集中)にすら達していなくて、プラティヤーハーラ(制感)なのですね。プラティヤハーラは感覚器官の呪縛から逃れて雑念から逃れよう、雑念と自分の心を引き離そうとする段階ですので、確かに、プラティヤハーラのことを「観察」と言うとそれっぽく聞こえるかもしれませんね。プラティヤハーラですとゾーンに入ることはなくて、雑念から一時的に少し離れるだけです。マインドフスネスは新たな流派ですので説明が混乱していますけど、確かに、いくつかを読む限りプラティヤハーラを観察と表現しているとすれば筋が通ります。

5.プラティヤーハーラ 雑念を取り払いましょう! 観察するのです!
6.ダーラナ → 集中しましょう! 集中による至福! ゾーン!

ヨーガスートラ的にはプラティヤーハーラのことを観察とはあまり言わないと思いますけど、確かに、説明としては観察と言った方が分かりが良い気が致します。ヨーガとかの古典瞑想をしていて観察とか言われるとディヤーナやサマーディのことかなと勘違いしてしまいますけど、プラティヤーハーラのことだとすればスッキリします。

この理解は最近流行のヴィパッサナー瞑想についても言えて、私はどうやらずっと勘違いしていたのかもしれません。ゴエンカ式が観察のヴィパッサナー瞑想とか言っているのは、長らくディヤーナやサマーディのことかと思っていましたけど、実際はプラティヤハーラのことを観察だと言っていたのだとすれば全ての説明がつきます。と、すれば、私は長い間、ゴエンカ式も買いかぶっていたことになりますね・・・。なんてこった。

マインドフルネスやゴエンカ式が割と宗教色を無くして一般人に受け入れやすくなっているのは、やっていることがプラティヤハーラで雑念を取り払うように「観察」することを瞑想手法として取り入れているからなのですね。

プラティヤハーラで雑念から離れることとサマーディで観察状態に入ることとは天と地の差がありますけど、どちらも言葉で言い表すと「観察」と言うこともできるのですね。これはしてやられました・・・。

であれば、今後、マインドフルネスやゴエンカ式の人が「観察瞑想」と言ってきたときはプラティヤハーラのことを言っているのかもしれない、という頭の切り替えができます。人によってコンテキストは違いますけど、私の中にこのコンテキストは今までありませんでした。サマーディとかの高い境地のことを言っているのかなと思っておりましたが・・・・、まさか、観察瞑想がプラティヤハーラのことだったとは・・・。

最初からそう言ってくれれば何も悩むことはなかったのに。ほんと、買い被りもいいとこです。瞑想の世界というのは本当に落とし穴がいっぱいですね・・・。ブッダを持ち出してきて観察瞑想の名を掲げ、ヴィパッサナー瞑想と言っているものは、実際にはヨーガスートラ的にはプラティヤハーラだったりもするのですね。

マインドフルネスの説明でサマーディっぽいお話もあったりしますので勘違いしていましたけど、手法や説明をしっかりと見るとプラティヤハーラのことを言っており、それを観察とか表現しているのですね。宣伝する方としては何か凄いことを言いたいでしょうからサマーディっぽいお話もするのかもしれないですけど、手法としてはプラティヤハーラで、よくてダーラナ(集中)でゾーンに入って歓喜に至る、というくらいなのでしょうね。

ゴエンカ式はそれが顕著で、サマーディとか悟りとかのお話をしているのでそれっぽく聞こえてしまいますけど、やっている手法だけを着目してみると息の観察やら感覚(五感)の観察だったりしますので、確かにプラティヤハーラと結びつけた方がしっくりきます。息の観察をするアーナパーナ瞑想のことをゴエンカ式では集中瞑想と説明していましたので私はダーラナ(集中)だと思っていましたけど、アーナパーナ瞑想も含めてゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想でやっていることは全てプラティヤハーラだとすれば違和感がほぼなくなります。

宗教を切り離して手法だけ取り出した瞑想の手法はプラティヤハーラが中心という共通点があるのですね・・・。今までずっと買い被っていました。

これらの理解があると、各種の疑問が氷解します。特に観察系のヴィパッサナー瞑想の流派で感じていた違和感の根本理由がわかったような気が致します。


■プラティヤハーラだとわかってしまえば指摘するなんて野暮なことはしない

もしかしたら、これらのことに気付いた先人たちがかつてゴエンカ式で素直に指摘したのかもしれないですね・・・。一つの仮説を立ててみます。

ゴエンカ式をやっている当人たちは悟りを開くための瞑想だと思っているようですから、その人たちに自分たちがしているのはプラティヤハーラだと指摘したらいい顔されないどころか、プライドが傷付けられてキレられるのも当然のような気が致します。

そんなプライドが残っていてキレるような人たちが先生をしている団体はその程度のレベルなわけですけれど、それでも、一般向けのビジネス講座だとすれば十分すぎるほどであると思うのです。この時代、瞑想が蔑ろにされていますから、プラティヤハーラであろうとも有益だと思います。

しかしながら、当の本人たちは悟りを開くためのブッダの瞑想だと思っているわけです。

これは、悲劇というか喜劇ですね・・・。一応はやっていることはプラティヤハーラですので悟りに向かう一段階であるわけで、特に間違ってはいないのですが、それだけしていれば悟ることができるかのように思っているのが喜劇です。わかってしまえばギャグのように笑い飛ばせますし、無駄ではないので悲劇ではないですけど、やっている当人はまだプライドの塊ですので、わかってしまうまでは喜劇のように深刻になってやっているわけですし、他人のそのような指摘はプライドを傷つけるのでキレて拒絶するわけです。

ですから、ゴエンカ式のようなビジネスマンが始めた一般向け非宗教を装っている瞑想コースでヨーガの人が嫌われるのかもしれないですね。本当の自分たちの姿がさらけ出されてしまうとプライドが消えてしまうので拒否反応を起こしているのでしょう。

ゴエンカ式の人がどうしてあれだけ怒りの沸点が低くてキレやすくなるのか疑問に思っておりました。今まで私はそれは瞑想手法に問題があるのではと思っておりましたが、瞑想手法は単にそこらのとそんなに変わりなく、どうやら、手法そのものというよりもそれに関わる人々のスタンスと考え方に問題があって、ゴエンカ氏もキレやすい性質だったと言いますから、おそらくは歴史的に団体の性質としてそのような文化が熟成されているのでしょう。であれば、キレやすい団体に私は関わり合いたくはないです。

その先のレベルに達する人もいる筈だとは思いますが、もはやカリスマのゴエンカ氏は死去しておりますので団体としての性質が変わることは考えにくいですね。であれば、わざわざ指摘するなんて野暮なことはしない方がいいと私なんかは思います。

プラティヤハーラの修行を必要としている人たちであればまだプライドもエゴもたっぷり残っているでしょうから、その運営者にしても参加者にしても大概はエゴ丸出しなのは当然といば当然でしょうね。

それを否定する必要はなくて、これは一段階ですので、それを超えてゆけばいいわけです。

この世界には瞑想が足りていませんので、プラティヤハーラをして悟りを求める団体があったとしても全く問題ないわけです。むしろもっとそのような団体が増えてもいいくらいです。

ゴエンカ式が他人の指摘を素直に受け入れずに自分たちの考えに固執しているからこそすぐキレる性質になってしまっているのだとしても、それはプラティヤハーラを必要としている人たちが運営しているのであればそのくらいなのは当然です。

ゴエンカ式がブッダの悟りを求める瞑想をしている筈なのにどうしてそんなにプライドが高くてエゴが大きくてキレやすい人がゴロゴロしていて、また、ゴエンカ式をすることで自分を見失って精神的に混乱する人が大勢いたとしても放置するのが何故なのか理解できないでいました。

ですが、ゴエンカ式の運営者・指導者にしてもプラティヤハーラのレベルだとしたら同レベルでありそれらの精神的な混乱をしている人を助けることはできず、ただ静観するしかないのは当然と言えます。

ゴエンカ式は、運営者もプラティヤハーラのレベルで、参加者も多くはプラティヤハーラあるいはそれ以前の段階だとすれば、教えられることもプラティヤハーラですし、混乱してしまった人を助けることができないのも当然なのです。

ゴエンカ式では鼻呼吸への集中であるアーナパーナ瞑想をヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)の準備のサマタ瞑想と位置付けていますが、これも実際には違うということになりますね。

■ゴエンカ式による説明
・アーナパーナ瞑想 観察のヴィパッサナー瞑想に入る前準備としての集中瞑想(サマタ瞑想)おそらくこれはヨーガスートラのダーラナ(集中)に相当すると推測。
・ヴィパッサナー瞑想 皮膚の観察。観察瞑想。悟りへと導く瞑想。ヨーガスートラのディヤーナ(瞑想)からサマーディ(三昧)に相当すると推測。

■ゴエンカ式の実際
・アーナパーナ瞑想 プラティヤハーラの準備として集中力をつける集中瞑想
・ヴィパッサナー瞑想 プラティヤハーラの実践

ですので、説明と実際やっていることと乖離があるわけですね・・・。どこまで本人たちが気づいているかどうかは人それぞれでしょうが。

・・・そのように考える方が素直な気がしてきました。これらのことがあらかじめ全てわかっていれば本人たちにわざわざプラティヤハーラだと指摘するなんていう野暮なことはしませんし、自分がヨガをしているなんていう野暮なことをゴエンカ式のところで明かしたりもしません。

おそらく昔から同様の指摘をする人がいて、まるで戦争が何代も続くうちに理由が忘れ去られてしまっているのと同じように、ゴエンカ式でキレやすい性質が何代も続いていてもはやキレやすい理由が忘れ去られてしまっているような気も致しました。

しかしながら、これらの仮説を立ててみるとゴエンカ式がキレやすい理由もしっくりきます。この仮説は、私の中ではしっくりきます。

これは、ゴエンカ式の程度が低いと言っているわけではありません。説明がちょっと拡張気味で、誇大宣伝だな、と言っているだけです。


▪️集中瞑想はヨーガスートラ的にはまだ瞑想ではない

いわゆる集中による瞑想は、まだ本格的な瞑想ではないわけです。

■ヨーガスートラの八支則
1.ヤマ(アヒムサ、サッティア、アステヤ、ブランマチャリア(禁欲、ブラフマチャリア)、アパリグラハ)
2.ニヤマ(シャウチャ、サントーシャ、タパス、スヴァスティアーヤ、イーシュワラ・プラニダーナ)
3.アサナ
4.プラーナヤーマ
5.プラティヤーハーラ
6.ダーラナ → 集中
7.ディヤーナ → 瞑想
8.サマーディ → 三昧

何かに集中する瞑想はヨーガスートラ的にはディヤーナではなくダーラナです。
多くの場合、瞑想していると思っていてもヨーガスートラ的にはダーラナ(集中)です。

ダーラナとディヤーナ、サマーディは割とはっきりとした区別があるのですが、最初は自分ではその違いはわからないと思います。

ざ〜っくり言うと以下のような分類です。

1&2.ヤマ・ニヤマ 道徳を大切に!
3.アサナ 体を動かしましょう!
4.プラーナヤーマ 呼吸をしっかりしましょう!
5.プラティヤーハーラ 雑念を取り払いましょう!
6.ダーラナ → 集中しましょう! 集中による至福! ゾーン!
7.ディヤーナ(瞑想) → 落ち着いてきましたね!
8.サマーディ(三昧) → 静寂の境地!

以下のようなものは、基本的には全てダーラナ(集中)だと思った方が良いと思います。
・呼吸瞑想
・皮膚を観察する瞑想
・歩く瞑想
・眉間に集中する瞑想
・マインドフルネス(息を観察する瞑想)

もちろん同じ手法を用いていてもその先のディヤーナ(瞑想)やサマーディ(三昧)の境地に辿り着くこともありますけど、違いがわからないうちはそれは単に「集中(ダーラナ)」だと思っておいた方がいいと思います。

世間で最近は「観察瞑想」とか言われていますけど、そんなのは名前が観察というだけで、確かに上級者は観察だと言うのは分かりますけど、初心者が真似て見たところで全て「集中」瞑想です。 初心者であれば例外なくみんな「集中」瞑想です。前世で修行した人とかであればいきなり観察瞑想と言うかディヤーナやサマーディできるかもしれませんけど、初心者であればみんな例外なく「集中」瞑想です。何やら世間で「観察瞑想」がどうこう言われていますけど、例外はないです。・・・こんなこと言うと反感を感じる人がいるかもしれませんけど、初心者であればみんなダーラナ(集中)です。それに疑問の余地はないです。

そう言うわけで、瞑想はいろいろありますし、言い方や説明で「観察」とか言ったりしますけど、観察という説明であってもやっていることは集中瞑想です。

初心者に向かって上級者向けの指示で「力を入れずにただ観察しろ」とか教えている流派もありますけど、それは無茶というものです。初心者は観察瞑想であるディヤーナ(瞑想)やサマーディ(三昧)なんてできないですよ。であれば、やっていることは集中瞑想でしかないわけです。いくら観察瞑想だと思っていても集中瞑想をしているのが初心者です。

マインドフルネスとかでも、息を「観察」しましょう、とか言っていますけど、それは息に意識を「集中」しましょう、ってことですよ。本当の観察であればそんな焦点など必要なしに体全体の動きをただ観察できます。それはディヤーナ(瞑想)を超えてサマーディ(三昧)くらいにまで達したらそうなりますけど、それができるのであればもはや初心者ではありません。初心者であればディヤーナ(集中)しかできません。そんなものです。あまり気負いせずに、観察だとか放っておいて、とにかく集中瞑想(ダーラナ)をした方が早道だと思いますよ。

ダーラナ(集中)を深く経験して次の段階に進むのが良いと私なんかは思うのであって、ダーラナ(集中)を抜きにして上の段階の「観察」なんて成り立たないと思うのですけどね。もともと葛藤がかなり少なくてダーラナ(集中)がほとんど不要な人もいらっしゃる気も致しますけど、それはダーラナ(集中)が完全にいらないわけではなくて早くダーラナ(集中)を通り抜けると言うだけで、飛び越してはいないでしょうからね。多くの人は葛藤や雑念に悩まされているでしょうから、まずはプラティヤハーラから初めてダーラナに進むのが普通だと思います。

マインドフルネスとかは、説明を読むと「観察」となっているので何やら上級な雰囲気がありますけど、実際のところやっているのはダーラナ(集中)です。それを瞑想と呼んでいるわけですし、説明では「観察です」とか言ったりするわけれども、それは説明のために言っているだけであって、本質はダーラナ(集中)です。一般向けに観察とか瞑想とか言っても違いが分からないと思いますし、観察と言った方が受けがいいから観察と言っている、という面もあると思います。観察という言葉を使っていても、説明の全体を聞く限り、ダーラナ(集中)の瞑想をしています。一般人は単に「ふむふむ」と聞いて、わかったような分からないようなもやもやした気持ちになっているだけなのかなと思います。はっきりと分からない、というのは当然で、そんなものだと思います。

ダーラナ(集中)によってゾーンに入ることができて強い歓喜が沸き起こってきて仕事の効率が上がるわけで、ダーラナのゾーンだけを使うのであればビジネスに有益だからマインドフルネスが話題になっているのでしょう。でも、それはディヤーナではなくてダーラナ(集中)ですけどね。説明で「観察」とか言ってて混乱したり誤解したりしている方も多いですけど、やっていることはダーラナ(集中)です。マインドフルネスはそれ以上の世界を教えませんし、扱いませんからね。それ以上に達した人もいるとは思いますけど、その体験すらも同じ土壌で語られますのでマインドフルネスが何なのかがますます分からなくなってきます。マインドフルネスが扱うのは基本的にはダーラナ(集中)の世界であって、その準備あるいはそれ以上の世界を求めるのであればマインドフルネスでは不足なわけですよね。マインドフルネスが宗教を切り離してただの技法にしているから素晴らしいとかおっしゃる方も大勢いて、もちろん個人の自由ですから好きにすればいいと思います。マインドフルネスのレベルであるダーラナ(集中)を極めてゾーンに入るだけでも人生を豊かに過ごすことができますし、頭の回転も良くなって仕事も効率的にできるようになりますから、それが目的だとおっしゃるなら好きにすればいいのだと思います。現世利益を求める方が現世利益のためにするのがマインドフルネスであると言えます。私なんかは物足りなさを感じて面白くないのですけど、技法だけで満足している方も大勢いらっしゃいますし、マインドフルネスで満足している方の気持ちは私はよく分からないですけど、満足を否定はしませんので、好きにすればいいと思います。この世界は自由の世界ですから、好きに生きればいいのです。

ダーラナ(集中)瞑想を極める期間は個人的にはそれなりにかかって、最初の10年くらいはゾーンに入るだけで歓喜が沸き起こってきてそれが楽しみではありましたけど、次の段階へと進んだ今となってはあのような彷彿と葛藤を繰り返す世界に戻りたくはありませんけどね。ですけど、そのダーラナの段階が無駄とは思っていなくて、それはそれで有益だったと思いますし、必要な段階だったと思います。

今から瞑想を始める方は不幸かもしれなくて、昔なら素直に集中瞑想だけできたのに、小賢しい人が大勢出てきて「瞑想の本質は観察だ」とか瞑想のテクニックを煽って宣伝する人がちらほらいて、何が本質なのか分かりにくくなっています。

おそらくは、よく分からずに変な瞑想手法をするよりは、単に今やっている仕事に集中してゾーンに入って歓喜が沸き起こるくらいになる方が精神的成長が早いと思います。特に最初のうちは。

基本的には最初は瞑想というと集中(ダーラナ)なのですから、そこをわきまえておいた方がいいと思います。


▪️ゾーンの歓喜と瞑想の階梯

瞑想をして、ある程度の段階に達するには時間がかかるように思います。

■ステップ1 5〜20年
瞑想あるいは仕事に打ち込むことによって対象と一体となり、ゾーンに入る。
最初は1年に一度、あるいは数ヶ月に一度ゾーンに入ることができる。
強烈な感情の高揚、歓喜が沸き起こる。感情が沸騰したかのような激しい感情を伴う。
対象に対する強烈な集中。観察という感覚はあまりなく、100%集中しているかのように感じられる段階。集中すればするほどゾーンに入れて激しい歓喜が沸き起こる段階。
ゾーンに入っていない時は精神が不安定で雑念に囚われている段階。
個人的には、この段階であれば瞑想をするよりも仕事に打ち込んでゾーンに入って歓喜を感じる方が成長が早いように思います。

■ステップ2 3〜5年?
ゾーンに入りやすくなる。1週間〜数日に一度ゾーンに入ることができる。
ゾーンに入りやすくなるにつれて精神が安定し、歓喜の度合いが減ってゆき、心の平安が増えてゆく。歓喜が減ったからと言って不幸せになった訳ではなく、歓喜の変わりに心の平安が増えてゆく段階。激しい歓喜の変わりに静かな楽しさと心の平穏が伴って行く段階。
強烈な集中は必要だが以前ほど必要としなくなってゆく。心の平安が増えるにつれ観察している感覚が増して行く。集中と観察が共存し始める段階。集中と観察とを比べると集中が優勢な段階。
ゾーンに入っていない時は精神がまだ不安定。

■ステップ3 1〜数年?
集中は未だ必要だが以前ほど強烈に集中する必要はなくなる。
瞑想で心が安定し、一定段階を超えると浄化の印であるナーダ音が聞こえるようになる。
精神が安定し始める。まだ精神が不安定になることも多いが以前のように雑念に惑わされることが減って行く。
この段階になるともはや「ゾーン」と呼ぶような強烈な歓喜はほとんどなくなる。ゾーンの終わり

■ステップ4 1〜数年?
日常生活で瞑想状態が保てるようになり、動体視力が上がり、視界がはっきりとしてくる。思考がクリアになり、雑念に惑わされることもかなり少なくなる。
人によってはこれをサマーディ、あるいはヴィパッサナーと呼ぶ。(サマーディとヴィパッサナーは説明だけ読むと違うように見えるが実際は同じ
日常生活が映画のように鮮やかで落ち着いていて楽しげなものになります。


・・・・これらの段階は個人的な経験を基にしています。違った階梯を辿る方もいるでしょう。多様な人がいるのですからそれは否定しませんし、自分の道があるというのならばそれは好きにすればいいと思います。

これらは階梯であって対立軸ではないと思います。人によってはこれらの階梯を対立軸のように捉えてしまって、最初の方の段階を否定して「集中しているだけではだめ」とか言ったりしていますし、あるいは逆に「観察ではなく強烈な集中が必要だ」とか言っていますけど、それは私なんかからすると階梯の段階によって重要なことは異なりますので、それらを対立しているものと考えてもあまり意味がないんじゃないかなと思います。これらは対立すべき概念ではなくて、ただ単に、それぞれの段階において意識の状態が異なる、というだけのことだと思います。

もしかしたら最初の段階は全く不必要なのかもしれませんけど、自分がそうだと思ったとしても実際はそれらの段階を前世で既に終えているというだけのことかもしれませんしね。そして、前世でしっかりそれらの段階をやっているのにも関わらず覚えていないだけで不要と言っているだけかもしれませんしね。前世じゃなくて前の前の人生で終えていたかもしれませんしね。あんまり、不要とか必要とか、そんな議論はあんまり意味がないと思います。自分に必要なものは自分が一番わかっていて、他人のそういうノイズはあまり気にする必要がなくて、他人の言葉は足を引っ張るだけのことも多々ありますし、自分の奥底に聞いて自分に一番必要なことをやればいいのかな、と思います。自分の今の状態を蔑ろにしてステップを飛び越えてもあまりいいことはないと思いますしね。これらの階梯にしても他人にとってみればただの参考でしかなくて、自分の階梯は自分で確かめてゆけばいいのかなと思います。

多くの人は最初の段階のことをゾーンと言っていると思いますけど、ごく一部のアスリートの発言はサマーディあるいはヴィパッサナーの状態のことをゾーンと言っているような気も致しますね。ですが、基本はゾーンと言うと最初の段階にあるような強烈な歓喜のことだと思います。

それと、おそらくは昔の武士が言っていたお話もサマーディやヴィパッサナーの境地でしょうね。最近の人は瞑想をあまりしないですけど昔の武士は瞑想していたでしょうし、それらの境地を知っていたとしても不思議ではありません。アスリートにしても瞑想をしているのとしていないのとではパフォーマンスが大きく異なるでしょうね。日本人が世界で勝てなくなった理由もこの辺りにあるかもしれませんね。瞑想は勝負に勝つためにある訳ではありませんけど、生きる上においてパフォーマンス向上のために瞑想はかなり役に立つわけです。最終的には勝負とかそのようなものを捨てて静寂の境地に辿り着くのかなとは思いますが、それでも、生きる上において意識を鎮めて静寂の境地に達し、頭の回転を良くして動体視力を高めておくことは勝負とは無関係にそのまま人生を豊かにすることに繋がると思うわけです。静寂の境地に達すれば他人と比べる必要もないですし勝負をする必要もないわけです。最近の人は武術なんてそんなにしないですけど、昔の人は武術は当たり前だった訳で、そうだとしても静寂の境地に達すれば武術は意識から消え去るわけで、私は今生で武術は学んだことがありませんけど、同じ静寂の境地に達したとすればもはや勝負の勝ち負けなんて意識からなくなったのだということは容易に理解できるわけです。


▪️プラティヤハーラ、ダーラナ、それぞれにプラトーが存在する

多くの瞑想はプラティヤハーラだという前提に立つと、色々なことが見えてきます。

5.プラティヤハーラ(制感) 雑念から離れる。雑念に気付けるよう努力して観察する段階。一般向けのヴィパッサナー。
6.ダーラナ(集中) 集中してゾーンに入り、至福に至る。
7.ディアーナ(瞑想) 意識が安定し、穏やかな境地に至る
8.サマーディ(三昧)感覚の微細化。本来のヴィパッサナー。五感を超えた観察状態。

という分類になるわけですね。

この分類に対して世の中の瞑想手法を当てはめてみることができるわけです。

■マインドフルネス
観察と称してプラティヤハーラ(制感)を行い、葛藤から離れる。リラックスの手段。
一部の人はダーラナ(集中)のゾーンの境地に入り歓喜と共に仕事を効率的に行う。
現世利益の追求のための手段としての瞑想。

■ゴエンカ式ヴィパッサナー
本人たちはブッダの瞑想だと思っているが、実際やっているのはプラティヤハーラ。
ブッダの瞑想はサマーディのレベルで、説明も原始仏教を元にしているのでサマーディっぽい話もあるが、手法としては完全にプラティヤハーラ。
まず息の観察をしてプラティヤハーラに入る準備をする。そして、体の皮膚の観察をして本格的にプラティヤハーラに入る。
ゴエンカ式は観察瞑想のヴィパッサナー瞑想をうたっており、サマーディを超えた瞑想をしていると本人たちは思っているのでダーラナ(集中)やサマーディが徹底的にヒステリックに否定される文化。
実際はプラティヤハーラのレベルでほとんどの人はそれ以上に達しない。
ゴエンカ式をして精神的に混乱をきたしたり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、あるいはプライドが拡大するという効果は瞑想している人の多くがプラティヤハーラのレベルだということを示している。
実際はサマーディとヴィパッサナーは同じだが、それが理解できるようなレベルではない。

■他のヴィパッサナー
本を読む限り、ミャンマーのヴィパッサナー瞑想は本質を捉えているように思いました。
それと、テーラワーダ仏教も本質がわかっているように思いました。

同じヴィパッサナー瞑想の看板を掲げていても中身を見るとプラティヤハーラをサマーディだと勘違いをしているゴエンカ式もあれば、その一方で、本質をわかっていてプラティヤハーラ相当から始めている流派もあるのだなと思いました。

おそらくヴィパッサナー瞑想を勘違いしているのはゴエンカ式くらいで、他の流派は、プラティヤハーラ相当からのスタートだと明確にわかっていてヴィパッサナー瞑想をしているように思われます。そのように感じられます。ですからダーラナ(集中)もディヤーナ(瞑想)も否定しないのですね。ゴエンカ式だけが集中瞑想(サマタ瞑想)を下に見て自分たちのヴィパッサナー瞑想こそが悟りへと至る瞑想だと主張していますが、そのように自分たちだけが最高だと思うような思想であればスピリチュアル初心者ということですので、ゴエンカ式を信奉している人の多くはスピリチュアル初心者であるように思われます。これは悪いと言っているのではなく、この世界はいま、瞑想が足りていませんから初心者向けであっても瞑想は大切なものです。ただ、勘違いをせずに、自分たちがしているのはプラティヤハーラであると明確に自覚してほしいと思っているだけです。プラティヤハーラ相当をしていても無駄ではありませんので悲劇ではありませんが、自分たちはサマーディをしていると思っていても実際はプラティヤハーラだったりするのは喜劇のようなもので後で笑い飛ばすしかない状況です。まあ、本人たちが好きで喜劇しているのは勝手にすればいいのですけど、周りを巻き込んで他人の瞑想を貶めるのはやめていただきたいです。ゴエンカ式をしている人の、他の人の瞑想に対する評価と態度が酷すぎます。本来は瞑想を長年してきた人の指導を受けるべきなのに新たな手法にしてしまって歴史が足りないからこんなことになっているのかもしれませんね。ゴエンカ氏は古代の瞑想を数千年ぶりに発掘して復活させたと主張していましたがそれは無知というもので、実際はブッダの瞑想の手法は各種の流派で受け継がれていますからね。各種の瞑想の流派では千年以上の歴史がありノウハウも数多く蓄積されているのです。落とし穴に落ちないための知恵もそれらの流派では蓄積されていますから、新たに始めたゴエンカ式に蓄積がなくて同じような落とし穴に落ちていたとしても不思議ではありません。

■ヨガ瞑想
古典のヨガ瞑想は、時間がかかります。
プラティヤハーラにまず時間がかかり、ダーラナに至ってもそこでまたプラトーがあります。
感覚的には、ダーラナを超えてしまえばその先は早いのではないかなと思っています。


▪️顕教と密教とヨーガスートラ

瞑想の多くがプラティヤハーラだとわかったわけですが、それと同様に、おそらくは顕教(けんぎょう)もプラティヤハーラ以前を扱うのだとすればすっきりします。

顕教はわかりやすい教えで一般大衆に向けた道徳観などを解きますが、ヨーガスートラ的にはヤマ・ニヤマのような道徳を説いていますし、雑念から離れることを主目的にしているところなどはプラティヤハーラそのものです。

多くのお坊さんが道徳を説いて、あまり難しいことを考えずとも素直に穏やかに道徳的に過ごせば良い、と説くのも顕教的なヤマ・ニヤマ、そしてプラティヤハーラなのだとすれば納得がいきます。

お坊さんにヨーガスートラのダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)のことを聞いてもサッパリだったり「そんなことは考えなくても良い」などと言われたりするのは顕教であって目的がプラティヤハーラなのだからですね。

そのように顕教の教えを説いている宗派のお坊さんあるいは信者に対して他のことを聞いたり教えを疑問に思ったりすることは、いわば野暮な行為なわけですね。だって顕教ですからそんなことを答えてくれるわけもありません。

先日のマインドフルネスのお話やゴエンカ式ヴィパッサナーもそうでしたが、かなり高い教えっぽく聞こえるものであったとしてもその実態はプラティヤハーラだったりします。言葉で「悟り」とか色々言っていたとしても、実際はプラティヤハーラであることがほとんどな気が致します。そう分かってしまえば、わざわざそれ以上を説く必要はなくて、プラティヤハーラであるところの「感覚に囚われないようにしましょう」とか「雑念を取り払いましょう」と教えることで一般大衆向けには十分すぎるほど十分なわけです。それがきちんとできるだけでもこの世を幸せに過ごすことができますので、悩みに囚われている一般大衆を助けるにはプラティヤハーラが重要になってくると思うわけです。

私は長い間、それらの一般大衆向けの流派および瞑想団体・宗派を勘違いしておりました。どちらかというと、私は一部の大衆向け流派を、ある意味では買いかぶっておりました。これはいい意味に捉えていただきたいのですが、おそらくは団体を立ち上げた中心人物の多くはすべてを分かった上でプラティヤハーラをしているように思えるのです。それでいてそれより上のレベルである悟りとかを説いて人々を惹きつけていたのだと思います。一部、立ち上げた人がよく分かっていなかったのではと思われるような事例もありますけど、歴史のある団体であれば分かった上でプラティヤハーラを説いているような気が致します。

そうした、団体の布教の対象として大多数である庶民をターゲットにし、であるからこそプラティヤハーラを主目的にあげるのは信者を増やすという点で有効だったように思います。

一方で、それ以上の境地、ダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)は密教の領域であると言えると思います。

一般教養の本を見ると顕教と密教はもっと違う定義がしてあったように思います。例えば顕教は道徳やわかりやすい教えだとして、密教はタントラのようにイメージを使ったりマントラを使うとか、そういう話はあると思います。しかしながら、ここで言っているのはあくまでも私の理解の上での分類であって、一般的な分類ではありません。

私は一般教養の説明より、こちらのヨーガスートラを基にした分類の方がすっきりするのです。

今、割と世間で話題になっているマインドフルネスなどの瞑想は、以下のような構図になっているように思います。

・テクニックとしてはプラティヤハーラ。顕教。雑念から逃れてリラックスする。よくてダーラナ(集中)でゾーンに至る。
・宣伝としては現世利益のリラックスおよび仕事の能率アップ。

他には、ゴエンカ式は以下のような組み合わせだと思います。

・テクニックとしてはプラティヤハーラ。顕教。雑念から逃れてリラックスする。そのことを「観察(ヴィパッサナー)」と呼んでいる。
・宣伝としてはブッダの瞑想。サマーディを超えた、悟りに至る観察瞑想(ヴィパッサナー)。

実際、大衆向け、特にビジネス向けであればプラティヤハーラを超えることはなく、サマーディを超えた瞑想とか言っていたとしても全然サマーディに達していないわけです。これは蔑んで言っているのではなく、プラティヤハーラはそれでもサマーディに達する一段階であるわけですから無駄ではないわけです。確かにそれは悟りに辿り着くことができますが、何やら勘違いがあるだけのお話です。

このように、一般大衆向けの宗派・団体であればほとんどがプラティヤハーラを主眼に置いているのだと思います。

特にそれが悪いわけでもなく、そうすることで多数が救われるのだと思います。

個人的にはプラティヤハーラはもちろん重要ですけど、それに絞った顕教の活動はあんまり興味がないです。色々なパターンがあるのでしょうね。

・プラティヤハーラが分からなくて信徒あるいは団体に入るパターン
・プラティヤハーラを超えてサマーディ等に達した後に一般大衆を導くため顕教の教祖になるパターン
・プラティヤハーラを完全には超えていなくて自分も信徒と一緒に学ぶために教祖になるパターン
・プラティヤハーラこそが悟りだと勘違いして信徒になるパターン
・プラティヤハーラを達成して自分が悟ったと勘違いして教祖になるパターン

色々あるのだと思います。信徒や教祖にしても様々ですし、団体も多様です。

しかしながら、その根元である、顕教はプラティヤハーラを目的とする、という1点さえ抑えていればかなり見極めができると思うわけです。