ホレズ修道院(Horezu Monastery, Manastirea Horezu)

2015-07-23 記載
トピック:ルーマニアホレズ

今日は ホレズ修道院(Horezu Monastery, Manastirea Horezu)を見学する。



ホテルから300mということで、あっという間に着いた。



今日は他にすることもないので、朝8時半から午後6時まで約9時間入り浸った。



とりあえず写真を撮った後、ベンチや教会の中の椅子に座って壁画を眺めていたら割とすぐに時間が流れた。



女性が多い修道院だけあって、花が多い。



英語はほとんど通じない。「ミサは何時ですか?」って翻訳ツールにかけてルーマニア語で聞いたつもりが、連れていかれたのが何故か食堂。無料でチキンスープ(めちゃうまい)とパンとオムレツみたいなの(これもいける)をご馳走になってしまった。よくわからないが、ここの運営方針かな?



ちなみに、ベジ食ではないんだね。

そう言えば、困ったら教会行けば食事や宿泊できるという噂を聞いていたが、こういうことか?
まあ、無料というよりも修行というかカルマの一環だろう。 無料は有料よりも難儀だ。
普通ならどこかでお返しせねば、という循環が生まれる。

ここは世界遺産だが、まだ使われている修道院で、修道士や修道女も多い。
年配の女性が多い感じだ。若い人はあまり入らないのかな?


教会の壁面を見ていると、次第に先日やられた南京虫の傷跡が痒くなってきた。手足全て噛まれているので手足全てが痒い。

ここでふと思った。痒いと感じているとき、意識はそこに集中している。集中というのは、いわゆるマインドの役割だ。 神智学とかでマインドとか言葉は聞いていたが、いまいち実感がなかった。というか、そういうものか、ふーん、って聞き流していることが多かった。

マインドは「心の声」という定義・捉え方よりも、もっと広義に考えて、心の声だけでなく「集中」という機能もマインドだと捉えた方がしっくり来る、とふとここで気がついた。定義は「マインドは意識そのもの。マインドは集中という機能および心の声」みたいな?

どこかで「息をしている時にマインドが止まる」って説明があって腑に落ちなかったが、マインドは心の声ではなくて意識そのものだと考えれば、息がキーではなくて、注意深く息をすることで意識(マインド)が息に集中するのでマインドが集中と「心の声」を同時には行えないために集中だけが起こり、心の声は止む、という理屈になる。集中が観察で、心の声が分析と考えると、観察と分析は同時には行えない、という理屈はしっくり来る。おそらく上記でのマインドという言葉の定義が違っていたんだろうな。上記だとマインド=心の声とすると、確かにその通りかな。流儀によって定義が異なるのはよくあることかも。

南京虫程度じゃ荒行には遠く及ばないだろうけど、修業で体をいじめる意味もいろいろあるんだろうな、とふと思った。南京虫程度でもいろいろ気づくことがある。

肉体というわかりやすいところが主体となり、明らかに肉体が発している感覚。その感覚を発生させるために荒行するかもしれないし南京虫かもしれない。その肉体的な感覚を感じている意識と、感じていること自体を見ている意識がある。この違いが肉体的階層の意識と、それより上というか微細な意識の違いなんだろうな。今は肉体の意識とそれ意外の意識、っていう二分割しかわからないけど、実は7つに分かれている、って話もある。言われてみれば、何かを考えているときに「どうだろうな」とその思考を見ている意識がないとも言えない。片方がマインドでもう片方は上位の意識?もっとはっきりと意識すればいろいろなことが見えてくるかも。

南京虫にやられたのも無駄ではなかったな。
世の中はまだまだ面白いことが多そうだ。





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